またまた雑感

2009/9/12 シュレーディンガーの遺言
数理科学の9月号 特集/シュレーディンガーを読んでいましたところ、以下のような文章がありました。 


〜〜〜シュレーディンガーが日記に書いた、遺言とも言えるものは下記のとおりである。

なぜなら、あるものはわれわれがそのものを感じるが故にあるのではない。
そして、そのものがないのはわれわれがそのものを感じないが故ではない。
そのものが存在するがゆえにわれわれはある。しかも持続的にである。
それゆえ、あらゆる存在は、すべて唯一なる存在である。
そしてある人が死んでも、唯一なる存在があり続けるということは、
その人が存在をやめたのではないということを君に告げているのだ。

私の墓に簡単な木片(たとえば箱のふた)にペンキでこれを書いて下さい。
けれども、木片があまりにすぐ腐朽しても困るので、少しばかりモルタルを
塗ってください。あとは思い残すことはありません。〜〜〜


これは、シュレーディンガーの死の20年ほど前に書かれた詩ですが、この詩が発見されたのは没後40年が経った後のことで、娘さんたちによって望みが叶えられたそうです。




2010/5/5 和辻哲郎による「法」の考え方
さて周知のように、さきの和辻哲郎は、原始仏教の根本的立場がこの「法の認識」にあることをもちろん見抜いていた。かれの主著の一つである『原始仏教の実践哲学』が、この「法の認識」について検討を加え、その性格を明らかにしようとするものであったことはいうまでもない。したがって氏による「法」の問題にかんする議論は、当然のことながら多岐にわたっている。それぞれに興味深いテーマが提示されているのであるが、しかしここでは、かれのただ一つの論点にしぼって考えてみることにしよう。
その論点というものが、「法」の本来の意味を「かた」としてとらえようとする見方にかんするものである。氏によれば、まず、現実世界において変化し、そして過ぎゆくものは、いうまでもなく時間的存在である。そしてこの時間的な存在を、仏教では「有者」ともいう。ところがこれにたいして、同じこの現実世界において変化もせず、過ぎゆきもしないものが、超時間的に妥当するものである。そしてこの超時間的に妥当するものが、原始仏教においては「自性svabhava」をもつものとされている。自性というのは、独立自尊といったぐらいの意味である。変わらざる本性といってもいいだろう。
さて、時間的に存在するものは変易し変化するから無常である。無常とは、恒常性が無いということだ。ところがこの無常なるものは、無常という「かた」「のり」において有り、かつ変化するのである、と和辻はいう。そしてこの場合の「かた」「のり」がすなわち「法」なのだという。換言すれば、一方に「無常」という概念があり、他方に「無常なるもの」という変化・消滅する事物がある。変化・消滅する個々の「無常なるもの」は、「無常」という観念(=かた)に支えられて存在しているわけである。それが和辻の、無常なるものは無常というかたにおいてである、という意味である。
ここで、無常なるものは変易する有者(存在)にすぎないが、無常性そのものは、無常なる有者を支えるところの超時間的な「かた」(=法)と考えられているところに注目しよう。「無常性」と「無常なるもの」を区別しているのである。すなわち和辻は、「法」と「法によって存在するもの」を区別した。「法の領域」と「存在の領域」のあいだに明確な一線を引いたのである。この現象世界においては、過ぎゆくものそれ自体が「法」なのではない。過ぎゆくものがそのものとしてあらしめられる「かた」としてのものが「法」なのである。法(法の領域)が無常なのではなく、法という「かた」において流転してゆくもの(存在の領域)が無常であるということになる。
くり返していえば、和辻哲郎は、法の解釈について無常なるものはあくまで「もの」であって、「法」ではないということを強調している。ついて第二に大切な点は、「存在」と「法」を前述のように領域的に分けたのであるから、「法」がすなわち「もの」であるという考え方を否定していることになる。こうしてかれの考え方からすれば、「法」は自性をもち、超時間的に妥当するものであって、時間的存在者ではない。(愛欲の精神史@性愛のインド 山折哲雄著 角川ソフィア文庫 P87〜P89より抜粋)

先日読んだ和辻哲郎の現象世界に関するとらえ方が、ディアグラツマ(図表)で書いた感覚に近いと思いました。



2010/5/17 性起の意味
 華厳宗第二祖智厳の著書『華厳経捜玄記』のなかでは、「性は体なり、起とは心地に現在するのみ」と定義した。如来が、衆生個々の心地に現在していることをいう。わたしたちの心のなかには、ほとけが結跏趺坐しているということになる。長い間かかって修行し、しだいに煩悩をなくして、ついに清らかなほとけの心になる、というのではない。本来わたしたちは成仏しているのだ、と説くのが性起にほかならない。
 わたしたちの現実の心は煩悩におおわれ、自我を主張し、苦悩にあえいでいる。心理的にはやるせない孤独にさいなまれている。このようなわれわれの心そのものが、ほとけのいのちの現われなのだ、というのが性起の思想である。わたしたちの悪業や煩悩や無明などのすべてが、「性起」にあらざるはないのである。煩悩や無明や悪は、その実体をもつものではなく、ほとけの世界からみれば、それらは非存在となる。現実に悩むわれわれの心のなかにも、ほとけの光明が貫徹している。ほとけの慈悲に包まれている。いや、欲望そのものが、ほとけの愛にほかならない。衆生のあるところ、そこにはいつでもほとけがある。浄土ではなくて、地獄こそほとけのすみかでなければならない。暗闇がほとけの光明を呼び、苦悩がほとけの慈悲を触発するのである。ほとけの出現はまさしく地獄においてである。われらが現にここに生き、けっしてここから離れることができない生死の世界こそ、まさにほとけのすみかにほかならない。
 仏性とか、ほとけのいのちというものは、衆生と切り離されて存在するのではなく、衆生とかかわることによって、歴史を形成し実践を展開してゆく。ほとけのいのちは性起として現実にはたらき、はたらくものを通して、現実に生きなければならない。ほとけのいのちとは衆生との出会いにおいて、衆生とのかかわりあいにおいて、衆生との媒介において、ほとけははじめてほとけのいのちを現わしてゆく。
 生死とは苦悩の現実であるが、この人生の苦しい戦い・迷いこそが、ほとけのいのちそのものなのであると言っている。この人生が苦しいからといってそこから逃避すれば、ほとけのいのちを失うことになり、また逆にこの醜悪な人生になんらの理想をもたず生きてゆくことも、ほとけのいのちを失うゆえんであることを説いている。仏教の教えはどこまでもこの現実よりの逃避であってはならない。この泥まみれな人生の真只中に生きるための力を与え、確信を与えるのが、仏教の教えなのである。そうでなければ仏教などは過去の遺物にすぎなくなろう。
 天台も華厳も中国仏教の精華といわれるものであり、ともに現実のなかに真理を見いだすという現実の絶対肯定論であり、両者とも個物のなかに普遍の内在を認め、迷える衆生に絶対の価値を見いだす教義ではあるが、天台では迷える凡夫がほとけのいのちとしての霊性を具有していると説き、華厳では凡夫は本来的立場からいえば、もともとほとけのいのちから出てきたものであると説く。天台は「具」の一字、華厳は「起」の一字で表わされる。個物は普遍的なほとけのいのちを本具するとみるのが天台、あらゆるものは普遍的なほとけのいのちの表現活動であるとみるのは華厳である。天台は凡夫の立場からほとけのいのちをみ、華厳はブッダの立場から凡夫をながめるのである。

「無限の世界観<華厳> 鎌田茂雄・上山春平著 角川ソフィア文庫」P170〜P177から抜粋。



2010/6/6 間違ったことは起こることができない。
投げ上げたボールが放物線を描くのは、その軌道が最も起こりやすいからです、というお話を何回かいたしました。経路積分の考え方では、投げ上げたボールは、あらゆる軌道を通る可能性がありますが、最小作用の原理に従って、最終的には放物線の軌道が波動関数の中から現象化しているわけです。

一方で、私たちは日常いろいろな体験をします。仕事がうまくいったりうまくいかなかったり、人間関係がうまくいったりうまくいかなかったりします。仕事がうまくいけばほめられ、仕事が失敗すればけなされて給料が下がったりします。人間関係がうまくいかなくなれば憎みあったり恨みあったりするものです。

仕事がうまくいくのもこの世に現れた現象であれば、仕事が失敗するのもこの世に顕現した現象です。また、人間関係がうまくいくのも現象であり、うまくいかないのもやはり顕現した現象です。

冒頭のボールの例のように物理の中で現象として見ることができることは、最も起こりやすいこと、つまり起こるべくして起こっていることであるということを考えますと、人間社会の中で起こっている現象についてもこの例に漏れないのではないでしょうか。

仕事に失敗したという現象も、そういう事が現象化したということは、あらゆる状況の中でそうなることが最も起こりやすかったわけで、起こるべくして起こったわけです。
人間関係がうまくいかなくなってしまった事も、そうなったということは、あらゆる関係の中でなるべくしてなったわけです。

放物線を描いたボールに対して、放物線を描くことは善いことなのか悪いことなのかを議論してみても何の意味もないのと同じように、仕事に失敗したことや人間関係がうまくいかなかったことに対して、善い悪いと判断することにも意味がないと思います。起こるべくして起こったのだから、それを受け入れるしかないのです。起こったことが唯一「正しい」ことなのです。

仕事や人間関係の場合には、起こった現象に対して、それは善かったとか、それは悪かったなどとしょっちゅう判断をしますが、ボールと同じように考えれば、起こったことが唯一「正しい」ことなので、善い悪いなどという評価は要らないわけです。

物理現象と人間社会の中の現象をこのように結び付けてしまうのは短絡的かもしれませんが、金融工学の中で出てくる方程式と物理の中で出てくる方程式がまったく同じ形であることを一例にとれば、あながち的外れな推論ではないのではないかと思っています。
株や金融派生商品の価格の形成を表す方程式は、シュレディンガー方程式とまったく同じ形をしていますが、価格の形成には人間の感情が大いに関与しているのも事実です。過去の株価の推移を記録した株価のチャートには、人間の欲や恐怖がくっきりと映しこまれています。

「相場は相場に聞け」という言葉があります。
買った株が下がってしまった時に嘆いてみたところでどうにもなりません。
起こったこと、起こっていることが唯一事実であるので、それを冷静に見つめろ、という言葉です。起こったことが唯一「正しい」ので、それに何らかの理由をつけて自分を慰めたり、買ったことを悪かったと後悔してみても仕方が無いのです。

株価がそうであるように、仕事の結果や人間関係についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

そして、人間社会に現れる現象も、ひとつひとつを細かく見てゆけば、それらは全て物理現象の積み重ねであるわけです。

その物理現象は、経路積分と最小作用の原理に従っていて、無数の可能性の中から最も起こりやすいことがおきているのだということを、現代物理学は明確に語っています。

ひとつの現象が顕現するその背景には、無数の捨てられてしまった可能性が存在するという事実を考えれば、起こったことが唯一「正しい」のだということを実感できるのではないでしょうか。

現象しか見えていない凡夫は、その現象に優劣をつけ、社会通念や常識、法律に従って起こった現象に対して善悪といった評価を下しますが、起こった現象の背景には、無数の顕現することができなかった可能性が存在することを思えば、生き残って表に現われた現象は、たとえそれが社会通念や常識の範疇では悪いことであったとしても、なにかとても貴重なものに思えてきはしないでしょうか。

「起こったことが唯一正しい。」、対偶を取れば、「間違ったことは起こることができない。」となります。



2010/7/19 魂のルフラン(Soul's Refrain)
魂のルフラン(Soul's Refrain):高橋洋子



2010/8/8 こつじき
社会のルールというものは、その社会に属している平均的な人々の振る舞いに則って作られています。
社会の常識というものも、その社会に属している平均的な人々の考えに基づいて醸成されるものです。
社会には、たくさんの人たちが存在しており、様々な人たちが属しているので、社会のルールや常識に馴染むことができない人が出てくるのもまた当然です。
このような人たちは、普通の人間関係を築けなくなったり社会に順応することが困難になったりして、働くことさえできなくなったりします。
ですので、こういう人たちを救済する仕組みが必要になってくるのですが、日本にはほとんどそういうシステムが存在しないのが残念です。日本では、こういう人たちも無理やり社会の常識の方に引きずり込もうとするか、あるいは無視する傾向が強いようにおもいます。

「乞食」(こじきではなくこつじきです。)、これは、救済の仕組みのひとつです。常識の枠から逸脱している(常識の枠にとらわれない)人たちは、常識の外側にある法(真理と言ってもよいかもしれません)を説いたり、実践することによって、一般大衆から尊敬され、ありがたがられて、その対価として食事をもらっているのです。インドなどではサドゥーと呼ばれます。
上から目線の大衆から食事を恵んでもらっているのではなく、大衆から尊敬されてどうぞお食べくださいというわけで食事をもらっているのです。

乞食は、つまり出家であり、出世間であります。出世間とは、世間の常識にとらわれないで生きるということです。

日本の仏教界にも出家というシステムはありますが、日本の出家は、お寺という組織に「転職」するだけのような印象があります。

社会に順応できない人たちでも、恒久的に食事を得られる仕組みが何か無いものでしょうか。そんな錬金術みたいなこと、無いですかね?



2011/11/23 錬金術を発見しました。
前回、「こつじき」の中で、「錬金術みたいなこと、無いですかね?」と自問してから、はや一年以上が経ってしまいました。

この答えが出たようです。

量子論と金融工学の考え方を融合すると、現代版の錬金術が存在することがわかりました。

詳細は追って、このホームページの中で、ご紹介してゆきます。



2011/12/20 錬金術考(その1)
錬金術のヒントは、カジノや保険会社の仕組みに見て取れます。

カジノは、数学者を雇って、カジノ側が若干有利となるようなゲームを用意します。
例えば、ルーレットには38個のポケットがあり、1から36までの数字が割り当てられた赤と黒の18個ずつのポケットに加えて、「0」と「00」の緑のポケットがあります。
赤に10ドル賭ければ、赤のポケットに止まったときに10ドルの配当がもらえ、黒か緑に止まったときには10ドル失います。
このゲームの勝率は、赤のポケットは18個なので、18/38=0.473。
配当の期待値は、10$×18/38-10$×20/38=-0.526$。
ギャンブラーの勝率は5割より低いし、配当の期待値もマイナスです。
そうです、ギャンブラーは、ルーレットを一回やるたびに平均52セントずつ損をするようにできているのです。
もちろんギャンブラーが実際に52セント失うことはなく、毎回10ドル勝つか、10ドル負けるかのどちらかです。
とはいえ、何度も何度もこの賭けを繰り返せば、ギャンブラーは平均で毎回52セント失うことになるのです。こうして「大数の法則」の犠牲者がまた一人増えるわけです。
カジノは不夜城、そしてこの法則がカジノを訪れる無数のギャンブラーに当てはまりますので、カジノ側には莫大な利益が保障されるのです。

保険会社もカジノに似ています。保険会社は、人の死ぬ確率や事故の起こる確率を綿密に計算しています。
そして、実際に人が死んだときや事故が起こったときに支払わなければならない保険金よりも十分多くのお金が入ってくるように保険料を決めているのです。保険加入者は無数にいるので、こういうことが可能になります。
健康で事故にあわない人のほうが圧倒的に多いので、保険会社は莫大な利益が保証されます。

カジノではたまに大勝ちする客もいますが、ほかの無数にいるギャンブラーのお陰で、カジノ側が儲け続けることになります。
保険会社ではたまに大きな保険金を支払わなければなりませんが、無数にいる保険加入者のお陰で、保険会社が儲け続けることになります。
これこそが、「大数の法則」と呼ばれるものです。

あなたは、カジノにならなければならないのです。
そして、あなたは、保険会社にならなければならないのです。
あなたは、ギャンブラーになってはいけません。
そして、あなたは、保険加入者になってはいけないのです。

復習しましょう。
錬金術のキーワードは、「勝率」、「期待値」、そして「大数の法則」です。

そして、個人がカジノや保険会社になる方法を見つけなければなりません。
そんなうまい方法があるのでしょうか?
実はあるのです。
(つづく。)





2012/1/7 錬金術考(その2)
前回ルーレットは、勝率も5割以下で期待収益率もマイナスである、というお話をしました。

それでは、株やFX(為替証拠金取引)はどうでしょうか?

金融工学では、株や為替は原資産と呼ばれ、原資産の価格はブラウン運動でモデル化されます。
量子力学で言えば、電子と同じです。
電子が、全くランダムな動きをするのと同じように、株価や為替レートも全くランダムに上下します。
つまり、株式投資や為替取引といった価格の方向に賭けるこのゲームは、当たるも八卦当たらぬも八卦、ということで、あたるもはずれるもフィフティー・フィフティーなのです。
価格が上がる確率も50%、下がる確率も50%ですので、勝率は5割ということになります。
そして、勝率が5割ということは、このゲームを何度も何度も繰り返せば、損も得もないということになりますので、期待値はゼロです。
ルーレットは、勝率も5割以下で期待収益率もマイナスでありましたから、株や為替への投資はルーレットよりはまし、ということですが、株や為替は勝率5割で期待値はゼロですから、投資しても実は全く得にならないのです。

株や為替で偶然勝つこともたまにはあるでしょう。そこで調子に乗ってもう一度やると今度は損して、前の儲けも吹き飛んでしまう、なんてこともよくあります。
これが大数の法則です。つまり大数の法則からは逃れられないのです。
コインを10回くらい投げただけでは、表が7回出て裏が3回なんてこともありますが、一万回投げてみれば、表または裏の出る割合は5割に限りなく近づいてきます。
株や為替も同じです。やればやるほど勝率5割、期待値ゼロに近づいてゆきます。つまり儲からないのです。

株や為替をやっている方がいたら、今すぐやめてしまうのが賢明です。

カジノでもたまに大勝ちすることがあります。この体験に味をしめて何度もやってしまった結果、大損をこいた、なんていう人もいましたね。
これも大数の法則の帰結です。なにせカジノはギャンブラー側が不利なようにできているので、やればやるほど損失が膨らんでくるのです。

儲かるためには、勝率5割以上、期待値がプラスでなければなりません。「それ」は一体何なのか?

見てきたように、株価や為替の動きは全く予想できないというのが金融工学の帰結です。
ですので「それ」は株やFXではありません。
株や為替と同じように、量子力学では電子の動きは全く予想することができず、シュレディンガー方程式で予測できるのは唯一、波動関数だけでありました。
では、量子力学で言うところの波動関数のように、予測可能なものが金融の世界には存在するのでしょうか?

実は存在するのです。そしてその勝率は?、期待値は?
(つづく。)



2012/1/21 錬金術考(その3)
さて、前回は株や為替は結局儲からないというお話をしました。
株や為替はランダムに上がったり下がったりするので、何度も投資を繰り返すと大数の法則で、損益の期待値はゼロになってしまうから、という話でした。
つまり、儲からない原因は、株価や為替レートの動きがランダムであるということなのです。
ランダムに動くので、将来の価格が予想できないと言い換えることもできます。
それでは、このランダムさを消し去ることができれば、儲けられるのでしょうか。
そうなのです、儲かるのです。
えっ!、でもどうやってランダムな動きを消すことができるの?
と皆さんは思われるでしょう。
株価や為替は、大勢の投資家が買ったり売ったりしているので、ランダムに上下します。
そんなものを消すことなんてできないよって。

結果からお話しますと、これは、二つの金融商品を混ぜ合わせえることによって可能になります。
金融商品Aだけだと価値がないし、金融商品Bだけでも価値がありません。
でも金融商品Aと金融商品Bを混ぜ合わせることによって、ランダムさが消えて、そこに価値が生まれてきます。
価値が生まれるというのは、つまり、勝率5割以上、期待収益がプラスになるということです。
あるいは、ランダムさが消えてそこに法則を見出すことができるとも言えます。

自然科学でもそうだと思いますが、この世は法則がまず先にあるのではないのです。
法則は結果にすぎません。
えっ!、法則がまずあって、法則があるからこそ、そこからいろいろなことが説明できるのではないの?
と思われる方もいらっしゃると思いますが、法則というのは、生まれてくるものなのです。
そして、何から生まれてくるかといえば、シュレディンガーが「生命とは何か」の中で言っていたように、まさにランダムさの中から生まれてくるのです。
つまり、この世の根源にはまずランダムさがあって、そのランダムさの統計的な性質から法則が生まれてくるわけです。

この性質をうまく応用すると、自然科学だけではなく経済の世界でも、ランダムさの中から法則性を生み出せるのです。
ランダムに動く金融商品Aと、やはりランダムに動く金融商品Bを、あるレシピにしたがって混ぜ合わせると、そこに法則性が生まれ、予想を可能にすることができます。

かつての人々は、価値がない石に何かの薬品を混ぜ合わせて金を創ろうと様々な試みを行いました。

錬金術です。

しかし、過去にそれに成功したという人を聞いたことはありません。

しかし、この現代、石や薬ならぬ、金融商品、そして金融商品には預金から始まって、株、債券、為替、投資信託、ETF、REIT、為替先物、個別株オプション、株券貸借、特約権付株券貸借、指数先物、指数オプション、指数先物オプション、通貨オプション、ワラント、転換社債、債券先物、債券先物オプション、債券店頭オプション、レポ、現先、金利、金利先物、金利先物オプション、FRA、日経リンク債などの仕組債、スワップ、キャップ、フロア、スワップション、商品先物、商品先物オプション、天候デリバティブなどなど、あまたの種類がありますが、その中から二つの金融商品を混ぜ合わせると金ならぬ、期待収益プラスという状況が構築でき、儲け続けることができます。

これが現代版錬金術です。
さてそのレシピとは?
(つづく)



2012/2/11 錬金術考(その4)
前回は、法則が先にあるのではなく、乱雑さの中から法則が生まれるのだ、というお話をしました。

物理で法則といえば、ニュートンの運動方程式や、マックスウェルの方程式、シュレディンガー方程式といった、「方程式」こそが法則です。
ですので、ここでは一例として、乱雑さの中からシュレディンガー方程式という法則が生まれる様子を見てみます。

では、その様子を見てみましょう。

ニュートン力学では、時間dtの間に粒子が進む距離dxと速さvとの関係は、お馴染みの通り、
dx=vdt
でした。
ところが、量子力学の時代になると、電子の進み方はジグザグで、vdtのほかにブラウン運動という乱雑さを表す項が付加されます。つまり
dx=vdt+σdW・・・@
です。ここでσ=√(h/m)で、dWがジグザグ運動を表すブラウン運動です。

このように電子が乱雑に動くとき、波動関数ψも
dψ=(α+vβ+0.5γσ^2)dt+σβdW・・・A
のように乱雑にゆらぎます。ここでそれぞれの記号は、
α=idψ/dt
β=dψ/dx
γ=d^2ψ/dx^2
σ^2=h/m
です。

電子も乱雑、波動も乱雑という混沌とした世界です。

次に以下のような量を考えて見ましょう。
dψ-βdx・・・B

@式、A式より、
dψ-βdx=(α+0.5γσ^2)dt
となります。

何かに気づきませんか?、そうです、乱雑さを表すブラウン運動項が消失してしまいました!!

dψ-βdx=r(ψ-βx)dt
なので、
α+0.5γσ^2=r(ψ-βx)
となります。
r→V/h
x→0
として、α、γ、σの記号を具体的にすれば、

idψ/dt+(h/2m)d^2ψ/dx^2=(V/h)ψ

となって、これはシュレディンガー方程式であります。

つまり、Bという量を考えることによって、電子も乱雑、波動も乱雑という混沌とした世界から、シュレディンガー方程式という法則が生まれたわけです。

ではB式では、何をやったのでしょうか?
それは、波動と電子を「混ぜ合わせた」のです。

波動1に対して、電子-βの割合で混ぜ合わせたのです。

料理のレシピの様に、波動と電子を1:-βの割合で混合したのです。

このレシピに従って混ぜ合わせると、未来を予測できない原因である乱雑さが消え、未来を予測することができる方程式が手に入るのです。

さて、錬金術の話に戻りましょう。
前回、「ランダムに動く金融商品Aと、やはりランダムに動く金融商品Bを、あるレシピにしたがって混ぜ合わせると、そこに法則性が生まれ、予想を可能にすることができます。」
と申しました。

勘が良い方はもう気が付かれたことでしょう。

そうです、波動と電子を混ぜ合わせてシュレディンガー方程式を生み出したように、金融商品Aと金融商品Bを混ぜ合わせて法則を手にするのが、「錬金術」ということです。

波動に対応する金融商品とは?
電子に対応する金融商品とは?
(つづく)





2012/4/21 錬金術考(その5)
錬金術がうまく行くかどうかは、以下の三つで決まります。

勝率:勝った回数/ゲームをした回数
オッズ:勝った時の利益/負けた時の損失
エッジ:(1+オッズ)×勝率−1

そして、結果的にはエッジがプラスであることが必須です。

エッジと期待値は、

期待値:勝った時の利益×勝率−負けた時の損失×(1−勝率)=エッジ×負けた時の損失

の関係がありますので、期待値がプラスであることが必須、と言い換えることもできます。

ルーレットを例にとってみれば、ギャンブラー側は、勝率が18/38でオッズは10$/10$=1だったので、エッジは−0.0526、期待値は−0.0526×10$=−0.526$
カジノ側は、勝率が20/38でオッズは10$/10$=1だったので、エッジは0.0526、期待値は0.0526×10$=0.526$

つまりカジノ側にエッジ(優位性)があり、ルーレットはカジノ側にとって錬金術です。

勝率が90%のゲームがあったとしても、勝った時の利益が10$で負けた時の損失が100$であれば、10回のゲームのうち9回勝って90$得ても、最後の一回で100$損するので、結果は-10$です。つまり、

エッジ=(1+10$/100$)×90%−1=−0.01(期待値は−0.01×100$=−1$)

ということで、勝率が高くても、オッズが低ければ、エッジはマイナスになってしまいます。
エッジがマイナスとなるので、このゲームに優位性はありません。

逆に勝率が10%しかなくても、勝った時の利益が100$で負けた時の損失が10$であれば、10回のゲームのうち9回負けても90$しか損せず、最後の一回で100$儲かるので、結果は10$です。つまり、

エッジ=(1+100$/10$)×10%−1=0.1(期待値は0.1×10$=1$)

なので、勝率が低くてもこのゲームには優位性があります。

FXや株でほとんどの人が儲からないのは、このエッジと人間のプライドが原因です。
FXや株は上がるのも下がるのもフィフティーフィフティーなので、勝率はおそらく50%くらいでしょう。

たまたま読みが当たって儲けが出たときは、勝ちを確定したいので、利益を伸ばせません。
一方読みが外れて損が出ているときは、負けを認めたくないので塩漬けにする傾向があります。

このためオッズ(勝った時の利益/負けた時の損失)がなかなか1.0を超えることができないのです。

人によって、オッズは0.8であったり0.7であったりするでしょう。

エッジ=(1+0.7)×50%−1=−0.15

とマイナスになるので、FXや株では結局儲けられないのです。

またたとえ、こまめに利益を確定して勝率を増やしたとしても、やられるときに大きくやられれば、先ほどの勝率90%の例でもわかるように、エッジがマイナスになってしまうので、結局儲かりません。

FXや株はやめましょう!

エッジがプラスになるようなゲームを見つけることが錬金術です。

エッジがプラスになるゲームを見つけて、そのゲームをやり続ければ、大数の法則によって、利益を上げ続けることができるのです。

カジノや保険会社はこのゲームを持っているのです。

金融市場(マーケット)には預金から始まって、株、債券、為替、投資信託、ETF、REIT、為替先物、個別株オプション、株券貸借、特約権付株券貸借、指数先物、指数オプション、指数先物オプション、通貨オプション、ワラント、転換社債、債券先物、債券先物オプション、債券店頭オプション、レポ、現先、金利、金利先物、金利先物オプション、FRA、日経リンク債などの仕組債、スワップ、キャップ、フロア、スワップション、商品先物、商品先物オプション、天候デリバティブなどゲームがあります。

ではエッジがプラスで私たちにもできるゲームがあるのでしょうか?

実はあるのです。為替や株じゃありませんよ。
そしてそれはあるレシピに従った2つの商品の組み合わせでしたね。
(つづく)




2012/12/24 錬金術考(その6)
ずいぶん間があいてしまいまして申し訳ありません。
実はこの間に、錬金術がうまくいくかどうかを実際に自分のお金を使って試しておりました。
例の金融商品Aと金融商品Bとをあるレシピに従って混ぜ合わせるというやつです。

結果は、以下のグラフとなっております。
横軸は営業日数、縦軸は損益(単位は例えば千円)です。
2012/5/22からはじめて、先週末までのグラフです。



とりあえず、この半年間はこの錬金術が機能したようです。





2013/5/20 錬金術考(その7)
私の錬金術は情報理論を使っている。

錬金術と情報理論、一見全く関係なさそうであるが、実は大いに関係があるのだ。
このことを最初に論文にしたのは、1950年代にベル研究所で働いていたJohn Larry Kelly, Jr.という人物だ。

彼は“A New Interpretation of Information Rate”という論文の中で、なぜか競馬と情報理論の関連について論じたのだ。

競馬は単に例であって、ギャンブルであれば何でもいいのだが、たとえばこんな感じである※。

馬の通し番号をiとおく。
馬iが勝つ確率をpiで表す。(Σpi = 1)
馬券購入者が使う資金のうち、馬iに投資する割合をbiで表す。(Σbi = 1)。
また、馬iが勝った時の配当(何倍になって返金されるか)をoiとおく。

馬iが勝った時の資金増加率は
S(i) = oibi
である。

ここでSの期待値ではなくSのlogの期待値を取って、
W(b) = E(log2 S(i)) = Σ pi log2 oibi
という値を定義し、成長率(growth rate)と呼ぶことにする。いわば2倍を単位とした増加の強度を表す値である。Wが1であれば2倍になるし、0であれば資金は増えない。

最適な資金配分bを求めるため、W(b)を最大化することを考える。

W(b)
= Σpilog(oibi)
= Σpilog(oi(bi/pi)pi)
= Σpilog(oi) + Σpilog(pi) + Σpilog(bi/pi)
= Σpilog(oi) - H(p) - D(p||b)
≦ Σpilog(oi) - H(p)

H(p)はエントロピー。D(p||b)はダイバージェンス(カルバック・ライブラー情報量)。最後の行で不等式を得るのにダイバージェンスの非負性を使っている。D(p||b)が0になるのは b=p の時である。

結局、Wの最大値は Σpilog(oi) - H(p) であり、b=p によって実現される。これはつまり、各馬の勝つ確率に合わせて資金を配分するのが良いということ。

たとえば弱小の馬がいて、1/100 の確率でしか勝てないだろうと思ったとしても、その馬に全投資額の 1/100 を賭けるのが良い。

この戦略において馬券購入者の儲けがどこから出てくるかというと、馬の勝つ確率と配当の間のズレである。

もし配当が完全に各馬の勝つ確率を反映していて、oi = 1/pi であったとしたら、
Wmax = Σ pilog(oi) - H(p) = Σ pilog(1/pi) - H(p) = H(p) - H(p) = 0
になり、まったく儲からない。

実際の競馬では配当が市場によって決まるため、それよりも正しく確率分布を予測できた人は儲けることができる。

たとえば全馬券購入者の資金がriという形で各馬に配分されていて、競馬の主催者の取り分を考えない場合、配当は oi = 1/ri になるが、W(b)をriを使って書き直してみると、

W(b)
= Σ pilog(bioi)
= Σ pilog((bi/pi)(pi/ri))
= Σ pilog(pi/ri) - Σ pilog(pi/bi)
= D(p||r) - D(p||b)

二種のダイバージェンスの差が成長率になる。ダイバージェンスは二つの確率分布の間の“距離のようなもの”と言われるが(分布の交換に関して対称でないので正確には距離ではない)、pとrが遠く、pとbが近い時に馬券購入者の儲けは大きい。

情報理論は確率論の一部門のような所があるので、それをギャンブルと結びつけようと考えるのは当然の発想かも知れないが、このように定式化されてみると面白い。


さて、実際の競馬では競馬の主催者の取り分(JRAの場合は25%)がある。また各馬の正確な勝率を予想することもほとんど不可能であるので、このようなうまい話には残念ながらなかなかならない。
そこで、競馬と同じような状況を、金融市場の中で構築することを考えてみるのだ。

例の金融商品Aと金融商品Bをあるレシピに従って混ぜ合わせたものである。

この合成商品を取引することによって、馬が2頭だけ出走するような競馬の状態を作ることができる。
そしてこの取引の勝率は金融工学の理論によって正確に予想できる。
一方で証券会社のwebサイトを見れば、この取引の価格が載っている。競馬の配当(オッズ)が載っているのと同じだ。
これらを元に例のダイバージェンス(カルバック・ライブラー距離)を算出する。
距離が大きいときに賭ければいいのだ。

競馬の主催者の取り分はこの場合手数料である。
金融市場のテラ銭は、オンライン証券のこのご時世、微々たるものでギャンブラーにとっては都合が良い。


※(参考文献) 情報理論 -基礎と広がり-



2013/7/1 錬金術考(その8)
ケリーの論文について大変わかりやすく解説してくださっているサイトがありましたので、今回はそのサイト様の記事を転載させていただきました。

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次のようなギャンブルについて考えます。

大勢の人で賭を行う(競馬をイメージして下さい)。
各人は、A、B、C のいずれかに好きな金額だけ賭ける(複数に賭けてもよい)。
どれか1つが 「勝ち」 になる。
賭けた金額はすべてプールされ、仮に A が勝ちだとすると、A に賭けていた人は、賭けた金額に比例してプールしたお金がもらえるという仕組みである。

競馬の単勝馬券みたいなものですが、競馬では控除率があってプールした金額の一部を JRA(日本中央競馬会)が取ってしまいます。ここでは控除がないものとします。この仮定は重要で、控除があると以下の話は成り立ちません。
例を示しましょう。A、B、C それぞれに対する賭け金の総額が次のようになっていたとします。

  A     B     C
100万円 200万円 300万円

賭け金をプールしたものは、600万円ですね。
仮に A が勝ちになれば、100万円に対し、600万円がもらえる勘定ですから、倍率は 6倍ということになります。つまり、A に 200円賭けていた人は 1200円戻ってくるわけです(儲けは 1000円)。
同様に考えて、B の倍率は 3倍、C は 2倍です。 

さて、あなたは、他の人が賭けるのを見定めた後、最後に賭けることができるとします。
A、B、C に現時点で賭けられている金額を知った上で賭けることができるわけです。

まず、次のことを仮定しておきます。

あなたは少額でしか賭けないため、あなたの賭け金による倍率の変化は無視してよい。
たとえば、上の例のような状況から、あなたが A に新たに 100円賭けるとします。本当なら、あなたが賭けることで、A に対する賭け金の総額は 1000100円になります。これは、わずかに A の倍率を下げ、B、C の倍率を上げるはずです。しかし、この倍率の変化はわずかなので、以下、倍率は変わらないとして考えるということです。
この仮定は必ずしも必要ではないのですが、面倒なのでこうしておきます。 


それと、次の事実を押さえておいて下さい。これは、控除がないために起こることです。
あなたは資金のすべてを、A、B、C のそれぞれに配分して賭けるとしてよい。
つまり、キャッシュ・ポジションはゼロとしていいのです。
理由は簡単です。先ほどの例で説明しましょう。

仮に 600円の資金を、A に 100円、B に 200円、C に 300円と配分して賭けるとします。この場合、結果がなんであれ、あなたには 600円が戻ってきます。つまり、賭けていないのと同じなんですね。

従って、あなたの資金が 1000円で、A に400円賭け、残りの 600円は現金で持っていたいなら、その 600円を 100円、200円、300円に分けて、A、B、C のそれぞれに賭けても同じ事です。

結局、「A に 400円、600円は現金」 とするのと、「A に 500円(400円+100円)、B に 200円、C に 300円」 とするのは実質的に同じです。

一般に、A、B、C それぞれの賭け金の総額に比例するように資金配分をすれば、現金で持っているのと同じです。
そのため、キャッシュ・ポジションは不要なのですね。以下、つねに手持ち資金のすべてを賭けるとします。 

では、問題。あなたは、A、B、C のどれが勝つかについて正確な確率を知っているとします。
いま、それを、20%、30%、50%としましょう。現在の賭け金の総額、倍率、勝率をまとめたのが下の表です。

            A     B     C
賭け金の総額 100万円 200万円 300万円
倍率         6     3      2
勝率         20%   30%    50%

このゲームは何回でもできるものとして、ケリー基準を使いましょう。
あなたは、現在 1000円持っているとします。どのように賭けるのがよいでしょうか? 

ケリー基準に従って、資産の対数の期待値を最大にする賭け方を求めると、
A に 200円、B に 300円、C に 500円
という具合に賭けるのが最適となります(計算過程はわからなくても構いません)。


さて、ここまでが、前説です。いよいよ本題。
現在の賭け金の総額、倍率、勝率が次の表のようになっていたらどうしますか?

            A     B     C
賭け金の総額 300万円 200万円 100万円
倍率         2     3      6
勝率         20%   30%    50%

先ほどの表と比べて下さい。勝率は同じですね。
ところが、なんと、もっとも勝ちやすい C に人気がなく、高倍率となっています。
一方、勝てる見込みの少ない A が人気で低倍率。
他の参加者たちは、大きく読み間違えているわけですね。あなたにとっては、チャンスです!

当然、先ほどの場合に比べて、
C に対する賭け金を増やし、A に対する掛け金を減らすべきだ
と思うでしょう。

ところがです。ケリー基準に従って計算すると、この場合の最適な賭け方は、
A に 200円、B に 300円、C に 500円
となるのです。つまり、さっきと同じです。


一般に、A、B、C の勝率が a%、b%、c%なら、資金をそれぞれに、
a : b : c
の割合で配分するのが最適となります。驚いたことに倍率は関係しないのです。 

他の参加者の動向は気にしないで、それぞれの勝率のみに基づいて資金配分をすればよいことになります。早い話、倍率を知っている必要すらないのですね。

もちろん、他の参加者が間違っていればいるほど、大儲けが期待できます。だから、他の参加者が間違っていることは、あなたにとってチャンスであるのは事実です。しかし、賭け方には関係しないのです。 

どうして、こういう直観に反する結論になるのか、私もちょっと腑に落ちないです。
キャッシュ・ポジション相当分が錯覚の原因かもしれません。

つまり、最初の例における最適戦略は、

A に 50円、B に 0円、C に 50円、現金 900円
と同じです。2番目の例では、
A に 0円、B に 166.7円、C に 433.3円、現金 400円
と同じです。

すなわち、キャッシュ・ポジション相当でない部分、つまり本気で賭けているお金については、A を減らし、C を増やしているのですね(2番目の例の方が有利な賭なので、キャッシュ・ポジションを減らしているのも合理的です)。

ところが、キャッシュ・ポジション相当の部分は、賭け金の総額が多いもの(倍率の低いもの)に多くの資金を回す形になるので、そこで相殺されてしまうというわけです。 

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以上、転載


1番めの例は、勝率が高い馬のオッズが低く、勝率が低い馬のオッズが高いので、参加者たちの読みは真の勝率に近いのですが、2番目の例では逆に勝率が高い馬のオッズが高く、勝率が低い馬のオッズが低いので、参加者たちは大きく読み間違えていることになります。

つまり、前回お話したカルバック・ライブラー距離というものを考えてみますと、1番目の例では距離が近く、2番目の例では距離が遠いということになります。

それぞれの馬の真の勝率を知っているあなたは、このカルバック・ライブラー距離が遠いとき、つまり2番目の例のようなときに賭ければ大儲けが期待できるのです。※


※競馬場の控除率が存在すること、そして、それぞれの馬の真の勝率を知ることはできないことにより、これを実際の競馬で実行することは困難です(ただ、先日、外れ馬券訴訟で外れ馬券も経費と認める判決を勝ち取った元会社員の方は、これと似たことをされていたのかもしれませんが)。




2013/12/31 錬金術考(その9)
これまでの錬金術の結果。
横軸は営業日数、縦軸は損益(単位は例えば千円)


今年のノーベル経済学賞は話題を呼んだ。
なぜかというと真っ向から対立する二つの理論が同時に受賞したからだ。

その二つとは、

ユージン・ファーマの効率的市場仮説
ロバート・シラーの行動ファイナンス理論

である。真っ向から対立しているので、将来にはどちらかの理論が必ず「誤った理論」になる事が確実だからだ。

そんなわけで、「誤った理論が受賞した、ノーベル経済学賞」といった記事(下記参照)が紙面を飾っている。

さて、本当にどちらかの理論は将来駆逐されるのであろうか?

私はそうは思わない。

「物理学はいかに創られたか」のなかでは、光を粒子であるとするニュートンと光は波であるとするホイヘンスの仮想的な討論が描かれているが、どちらかが誤った理論として駆逐されているといったことがないことは、現代物理学ではすでに常識になっている。

一見対立する粒子と波が、現代物理学では融合して共存している。

「粒子と波」以外にも、「乱雑さと法則性」などは一見対立するが実は共存できるという概念のひとつである。
粒子の軌道は遠くから見れば滑らかであるが、近づいてよーく見てみると、ジグザグなランダムな動きをしている。
遠くから見ればニュートン力学という法則にしたがって滑らかな軌道を描いているように見えるが、近くで見れば量子力学的な乱雑な動きをしているのだ。

遠くから見る、近くから見る、というのは、言葉を変えればマクロ的な視野かミクロ的な視野かということであり、スケールを変えてみると同じものが異なる見え方をするということである。

ライアーズ・ポーカーの中に、「長い目で見ると、市場が基本的な経済法則で動いていることはまちがいない。
が、短期的なカネの流れはそれほど理にかなったものではない。」というくだりがある。

このくだりは示唆的である。長期の時間スケールでマーケットを見てみれば市場は効率的であるが、短期のスケールで見てみるとマーケットは非効率的、つまり行動ファイナンス理論に近いというわけである。

一見対立するかのように見える、効率的市場仮説と行動ファイナンス理論であるが、時間のスケールを変えてみると同じものが違った見え方をしているだけなのである。

そして、行動ファイナンス理論と効率的市場仮説が共存しているマーケットには裁定機会(アービトラージ)が存在し、詳しくは書けないがこれこそが錬金術の原資なのである。



********************* 誤った理論が受賞した、ノーベル経済学賞 ******************

ノーベル経済学賞と、経済学のなぞ

今年のノーベル経済学賞受賞者が決定した。米シカゴ大のユージン・ファーマ、ラース・ピーター・ハンセン、そして、米エール大のロバート・シラーの3氏の共同受賞となった。受賞理由は、資産価格の決定要因の実証的分析だ。今回のノーベル経済学賞は画期的である。それを含めて、ポイントは3つあり、順番に見ていこう。

度胸がある、ノーベル賞委員会

第一には、誤った理論がノーベル賞を取ったことが確実になったことである。

3人が同時受賞となった理由のひとつは、資産価格の決定要因は経済学者にはわかっていないことにある。経済学者にわかっていないことの研究がノーベル賞になるわけだから、物理や化学の学者からしたら卒倒ものだろうが、これが経済学だ。

このコラムでも散々指摘したとおり、現実の株価や為替は、ファンダメンタルズと呼ばれる実体、言い換えれば、企業業績や金利などにより決まるわけではない。しかし、無関係とも言えない。そのような現実の中で、株価や為替などの金融資産の市場価格がその資産のリスクとリターンというファンダメンタルズでほとんどすべて説明できると主張し続けるファーマと、それに疑問を呈し、いや、真っ向から反論し続けているシラーが同時に受賞するのであるから、どちらかは必ず間違っていることになる。どちらかが必ず間違いとなることを承知で、ノーベル賞を与えた、将来、完全に誤った主張をし続けた学者がノーベル賞をもらっていたということが起こることが100%確実な中で、二人に賞を与えることにしたのだから、ノーベル賞委員会も度胸がある。

逆に言えば、これが経済と経済学の現実であり、自然科学との大きな違いだ。

これには3つの理由がある。第一には、経済学は未熟な学問だということだ。経済学には、経済のことはまだ何もわかっていないのだ。資産価格の変動の理由は、わからない。少なくとも学問的には確立した理論、説明方法はない。そこで、今回のノーベル賞は、現時点での2つの有力説のそれぞれの代表、効率的市場仮説を中心とした現代ファイナンス理論のファーマと、投資家行動がすべてを決める行動ファイナンス理論のシラーが同時に受賞することになったのである。

何も確定的なことは言えないが、わからないことに果敢に切れ込んでいる経済学の2つの理論が受賞することになったのである。果敢に切れ込む経済学者もすごいが、切り込み隊長にノーベル賞をやる委員会の度胸がすごい。






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