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光源から光が出ていてその光がスクリーンにあたっています。
スクリーン上がまんべんなくボーっと光っています。
光源とスクリーンの間に、二つの穴が開いたスリットを挟んでみますと、スクリーン上の光は縞模様になります。いわゆる光の干渉です。これは光が波である一面です。
光源の光の強さを弱めてゆきますと、スクリーン上には光が点として到達するようになります。左上でポツリ、右下でポツリといった具合に、輝点としてスクリーン上に光は到達するようになります。これは光が粒子である一面です。
しかしこのポツリポツリの輝点は、一見全くアットランダムにスクリーン上に到達します。一つ目が左上に到達すると、二つ目は右下に、三つ目は左下で、四つ目は真ん中・・・といた具合です。
一見アットランダムに到達していたと思われる光の点を、百万個集めてみましょう。するとどうでしょう!なんとスクリーン上には最初に言った縞模様が再現されるのです。
ポツリポツリと粒子のように振舞っていた光も、実は自分が波であるということを覚えており、一見アットランダムに到達していた光も、それらを集めてみると、波の性質である縞模様つまり干渉縞を再現することができるのです。
これが光の波動性と粒子性の二重性です。光は波として振舞ってみたり粒子として振舞ったりしているのです。
光は波として振舞っているにもかかわらず、スクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達します!
光は波として振舞っているのに、そのエネルギーは一個、二個・・・と数えられるのです!
光だけではなく、電子などの素粒子も全くこれと同様の振舞いをします。
電子についての様子は、日立基礎研究所の実験ビデオで見ることができます。
↓
http://www.hqrd.hitachi.co.jp/em/movie/doubleslite-n.wmv
二つの穴が開いた鉄板に向かってマシンガンを打った様子を想像してみて下さい。鉄板の向こう側の壁にはどんな傷跡ができているでしょうか。これは容易に想像できます。鉄板に開いた穴の丁度直線上の壁の部分がすごい傷になっているはずです。
鉄板には穴が二つありますから壁の傷も二箇所ということになります。
つまり、弾丸のような粒子が二つの穴の開いたスリットを通過したとき、向こう側のスクリーンには縞模様などどうしてもできないのです。
ところが弾丸ではなく電子で実験すると、なんと縞模様ができるというわけです!
電子は、粒子であると共に波でもあるのです。私達はこんなものから出来ているのです!
どうでしょうか、皆さんはこの事実を不思議に思いますか?
(次回へつづく)
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この二重スリットの実験のことを学生のときに知り、この事実が不思議で不思議でたまりませんでした。それ以来、二重スリットの実験のとりこになり、どうしてこのようなことが起こるのかを20年考え続けました。
私のホームページは、この思考の過程で気付いたことを忘れないようにするために、自分のためのメモのような位置づけで立ち上げました。
思考の過程で気付いたことは、ある意味、「常識的ではない」、ことでした。
二重スリットの実験は、量子論の醍醐味ですね。
ここに、この世界の本質が凝縮されています。
一個の電子や光子でも干渉するのは、
一個の量子が、スリットAを通る経路とスリットBを通る経路を同時に辿るからです。
スリットを取り除いてしまうと、一個の量子はあらゆる経路を同時に辿ります!!。これが経路積分です。
二重スリットの実験は、経路積分の二経路版なのです。
もう少し詳しく言えば、スリットAを通る経路に付随する波exp(iSa/h)とスリットBを通る経路に付随する波exp(iSb/h)が干渉しているのです。
ここでSaはスリットAを通る経路の作用、SbはスリットBを通る経路の作用です。この波の等位相面に垂直な方向が、量子が辿る経路です。
波exp(iS/h)は、ホイヘンスの原理に従っています。
池の中心に石を投げ込んだとき、池の中心から円形の波が広がってゆきますが、時間を止めてある時点の波の様子を見てみると次のような波が見えます。
大きな円が一つあります。その円の円周に、たくさんの小さな半円が花びらのようにたくさんついています。
時間をちょっと進めてみると、たくさんの花びらの先っぽをつないだ円になります。さっきの大きな円よりちょっとだけ半径が大きい円です。
ホイヘンスの原理で波が伝わってゆく様子はこんな感じです。こんな感じで円形の波が広がってゆきます。
この波がスリットに到着すると、スリットを抜けた花びらだけがスリットの向こう側に広がってゆきます。
二重スリットでは、スリットAを抜けた花びらから広がっていった波と、スリットBを抜けた花びらから広がっていった波が、最終的にスクリーン上で干渉します。
片方のスリットのところで観測行為をしてしまうと、そのスリットから本来出てゆくはずの花びらが消えてしまいます。従いまして観測してしまうとスクリーン上には干渉縞が現れません。
この世を波と考えるといろいろなことが説明できます。
経路積分は面白いですよ。
量子はあらゆる経路を同時に辿るのですから、私達が家から駅に歩いてゆくときも、実は私達はある意味で、木星にも火星にも行っているわけです!!。
ではなぜ量子は波として振舞っているにもかかわらず、スクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達するのでしょうか?
量子は波として振舞っているのに、どうしてそのエネルギーは一個、二個・・・と数えられるのでしょうか?
(次回へつづく)
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量子論の中における「粒子性」という言葉は、とても曖昧な使われ方をしている印象があります。
「光量子」といった場合に、何を思い浮かべるでしょうか?
@エネルギーをhνという塊でやり取りするもの。
A2重スリットの実験でスリットに輝点として現れるもの。
の二つの意味がごちゃ混ぜになっているような気がしています。
@は「エネルギー」が確定している状態であり、Aは「位置」が確定している状態です。光量子の場合、E=cpですので、「エネルギー」Eが確定していれば、「運動量」pも確定します。
量子論では、「運動量」と「位置」の不確定性原理がありますので、「運動量」が確定している時「位置」は全くわからず、逆に「運動量」が全くわからないとき「位置」は確定します。
@は運動量が確定している状態であり、Aは位置が確定している状態ですので、@とAは全く異なる状態ということになります(運動量と位置とを同時に確定することは出来ないので)。
そして多くの教科書で、光量子つまり光の粒子性を述べているところを読んでみますと、おおむね@の意味で述べているものが多いようです。
つまり、「光量子とは、エネルギーをhνという塊で渡すもの」という使われ方です。
ところが、エネルギーをhνの塊で渡すものとは、実は波なのです。
エネルギーをhνの塊で渡すということは、波の性質だけで十分に説明できるのです。
バイオリンなどを考えていただければいいかと思いますが、弦の振動には基本振動、倍振動、三倍振動などのモードがあって、基本振動のエネルギーがhνであれば、倍振動のエネルギーは2hν、三倍振動のエネルギーは3hνということになって、例えば三倍振動が倍振動に遷移する時に、hνというエネルギーを放出します。
電磁場とは、このようなイメージです。これを「電磁場は調和振動子の集まりと同等である」いいます。
そしてこれが、量子は波として振舞っているのに、そのエネルギーは一個、二個・・・と数えられる理由だったわけです。
(「よくわかる量子力学(連続性と非連続性とをつなぐ伝播関数)」を参照。簡単に言えば、経路積分で表わされる波動をテーラー展開すると飛び飛びのエネルギーの概念が導出されるということです。)
エネルギーをhνの塊として渡すことに目をつけ、これを粒子性ととらえ、これに「光量子」と名づけたのはアインシュタインですが、これは、若干、解釈が飛躍しているように私は個人的に思っています。
なにも粒子性を持ち出さなくとも、バイオリンの例のように、波動性だけから飛び飛びのエネルギーつまり量子化されたエネルギーが導き出せるのですから。
では、最後に残った問題です。
このように量子は波として振舞っているにもかかわらず、どうしてスクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達するのでしょうか?
それもアットランダムな場所で観測されるのです。
波なのに、アットランダムな点として観測される???
禅問答のようですね!
(次回につづく)
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さて、最後に残った問題です。
量子は波として振舞っているにもかかわらず、どうしてスクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達するのでしょうか?それもアットランダムな場所で観測される!!!***これが最後にして最大の難問でした***
@「波のイメージ」は池にできる波紋に例えることができました(二重スリットの実験の波の面)。
A「波として振舞っているのに、そのエネルギーは一個、二個・・・と数えられる」のは、バイオリンに例えることができました(二重スリットの実験の粒子の面)。
B「波なのに、アットランダムな点として観測される」のは、残念ながら日常見られる事象に例えることはできません。つまりこれこそが、量子論のミステリーであり「常識的ではない」事だからです。しかし、二重スリットの実験の映像、で見たようにこれがこの世の事実なのです。
量子は波として振舞っているにもかかわらず、スクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達するのです!!!
さて、ここからが本題です。
酔っ払いの千鳥足を思い浮かべてください。
右へ一歩、左へ一歩・・・、赤提灯をあとにした酔っ払いは、ふらふらふらふらと家路に着きます。
これをランダムウォークあるいはブラウン運動と呼びます。
酔っ払いが二歩あるいたとき、道の右側にいる確率は1/4です。道の真ん中にいる確率は1/2です。道の左側にいる確率は1/4です。なぜならば、酔っ払いの歩き方は次の四パターンだからです。
右→右(結果、道の右側にいる)
右→左(結果、道の真ん中にいる)
左→右(結果、道の真ん中にいる)
左→左(結果、道の左側にいる)
では、この類推で、酔っ払いが三歩あるいたときや四歩あるいたとき・・・はどうなるでしょうか。上のように、パターンを上げていくのもよいですが、ここに便利なものがあります。パスカルの三角形です。
パスカルの三角形とは、
1
1 1
1 2 1
1 3 3 1
1 4 6 4 1
1 5 10 5 1
1 6 15 15 6 1
というものです。二歩あるいたときは、上から三番目です。
1+2+1=4なので、1/4、2/4、1/4ということでした。
三歩あるいたときには、上から四番目を見てください。
1+3+3+1=8なので、道のかなり右側にいる確率が1/8、道のちょっと右側にいる確率が3/8、道のちょっと左側にいる確率が3/8、道のかなり左側にいる確率が1/8ということになります。
ですので、四歩あるいたとき道の真ん中にいる確率は、もうお分かりですね!1+4+6+4+1=16ですから、6/16=3/8ということです。
つまりこのパスカルの三角形を見てみますと、真ん中の確率が高く、両端に行くに従って確率が低くなることがわかります。
酔っ払いは千鳥足でふらふら歩いているものの、正しく家路に向かう確率が最も高いというわけです。もちろん他所に行ってしまう確率もあるわけです。これがランダムウォーク(ブラウン運動)です。
酔っ払いの歩数を限りなく増やしてゆきますと、パスカルの三角形はある関数に収束します。それは、
1/(√(2π・σ^2・冲))exp[-(凅)^2/(2・σ^2・冲)]・・・C
というもので、いわゆる正規分布関数です。
凅が道の真ん中からのそれ具合、冲が歩いた時間あるいは歩いた歩数、σは酔っ払いの歩幅(ボラティリティーと呼ぶ)を表しています。
ランダムウォークはこのような関数で表すことができます。
さて、何を言いたいか分かってきましたでしょうか。
二重スリットの実験の話に戻ります。
スクリーン上でアットランダムな点として観測される輝点もこの式で表すことができます(酔っ払いと同じなのです)。つまり、
1/(√(2π・σ^2・冲))exp[-(凅)^2/(2・σ^2・冲)]・・・C
です。凅がスリットからのそれ具合、冲がスリットとスクリーンの距離(量子がスリットを通過してスクリーンに到達するまでの時間)を表しています。
「続、雑感」の中の、「2007/4/18 三つの錯覚」で
存在のボラティリティー(存在の広がり具合)= √(h/m)
という式をご紹介しました。
つまり量子の場合、
σ = √(h/m)・・・D
なので、これをCに代入してみますと、
√(m/(2π・h・冲))exp[-m(凅)^2/(2・h・冲)]・・・E
となります。
さらに時間を虚数にしてみます。つまり
t→iτ
と変換します。するとEは
√(m/(2π・h・冓τ))exp[-m(凅)^2/(2・h・冓τ)]
= √(m/(2π・h・冓τ))exp[(i/h)・(1/2)m(凅/刄ム)^2・刄ム]
= √(m/(2π・h・冓τ))exp[(i/h)・(1/2)mv^2・刄ム]・・・F
となります。
Fで、
(1/2)mv^2
は運動エネルギーですので、
(1/2)mv^2・刄ム
は「エネルギー×時間」の次元になり、これは作用Sを表します。つまりFは
ψ = √(m/(2π・h・冓τ))exp[(i/h)・S]・・・G
となり、これは「二重スリットの実験の波の面」などでご紹介した経路積分の波動関数
ψ = exp(iS/h)
そのものになってしまいました!!!(√(m/(2π・h・冓τ))は規格化定数)
酔っ払いの千鳥足から始まって、経路積分の波動関数まで長い道のりでしたが、スクリーン上でアットランダムな点として観測される輝点の式Cが、実は波動を表す式Gと同等であることが証明されたわけです。
つまり、「量子は波として振舞っているにもかかわらず、スクリーンに到達するときは粒子のように輝点として到達する」のです。
スクリーン上でアットランダムに観測されるいかにも粒子のように見える輝点も、実は波の性質に帰着できたのです。
(数学的には、ランダムウォークを表す正規分布関数で時間を虚数にすると、経路積分で表される波動関数に変換される、ということです。)
「波なのに、アットランダムな点として観測される」
日本語にしてみますと、全く「常識的ではない」響きになりますが、数式にしてみますと、矛盾がないのです!!!
「常識的ではない」ため、何かに例えることは全くできないのですが、数式ではこの事実を矛盾なく表現できるのです。
「物理の追求は、ギャーナヨーガ(哲学のヨーガ)※に近いのかも」と思っておりますが、今日のお話は、このたぐいの典型なのかもしれません。体験や日常の中のものでは例えられないが、数式でのみ表せる事実、論理的熟考分析によってのみ得られる真理です。数式には暴力的な説得力があると私は常々申しております。「常識的でない」ことが数式によってのみ腑に落ちるということがあります。その一つの例が今回の二重スリットの実験です。
本日は長い間お付き合い頂きましてありがとうございました。では最後にもう一度二重スリットの実験の映像を見ておきましょう。
http://www.hqrd.hitachi.co.jp/em/movie/doubleslite-n.wmv
(おしまい。)
※ギャーナヨーガ(ウィキペディアより)
高度な論理的熟考分析により、真我を悟るヨーガ。クリシュナムルティが有名。20世紀を代表する聖者の一人であるシュリ・ラマナ・マハリシは、このヨーガで大悟したとされているが、一般的に難易度の高いヨーガと云わざるを得ない。だが、巧く実践可能であるならば最も高度なヨーガとなりうるとの意見もある。このヨーガの行者はギャーニ(ジュニャーニ、jnani) 。
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