脱、常識

2006/5/3 人間と動物
私は人間の「苦しみ」についてよく考えます。

人間の苦しみとは何でしょうか。
その一つとして、「何々をしなければならない」という義務感や責任感、協調性などといった、モラルが原因となっているのではないでしょうか。
これらは、小学校からの教育の中で、みっちりと仕込まれます。
通信簿には、責任感A、協調性C、などというような評価も私が子供の頃にはありました。

振り返って、動物で考えてみた場合、責任感のある犬や義務感のある猫などは、あまり聞いたことがありません。

私はよく、動物はやらないのだけれども人間だけがやっていることが、案外苦しみにつながっているのではないかと考えたりします。

そして、これらは、人間が生まれつきやっていることではなく、教育や社会の中で、刷り込まれたものなのです。義務感や責任感、協調性は大事ですよ大事ですよと。 

「ブッダの夢 河合隼雄と中沢新一の対話」という本の中に、次のような一節がありました。

「僕の友達のスイス人が言ったけど、日本人は、孔子様とキリスト様に睨まれて、こんな可哀相な人はいないって(笑)。 まったく自由を失っていると言ったスイス人がいましたが、あれは感激しました。」

つまり、日本人は儒教と言う戒律と、キリスト教と言う戒律の両方からガッチガチに縛られていると言うわけです。これでは苦しいのも無理は無いと言うわけです。

また、「将来に対する不安」や「過去に対する後悔」なども苦しみの一つですが、やはり、将来を不安に思っている牛や、過去を後悔している羊などはあまり見かけません。

なぜ人間はこういうことを考えてしまうのでしょうか。

これは「将来」という概念や「過去」いう概念、「不安」という概念、「後悔」という概念が人間の頭の中にあるからです。

牛には「将来」と言う概念は無いのではないでしょうか。羊には「過去」と言う概念は無いのではないでしょうか。犬には「不安」という概念は無いのではないでしょうか。 猫には「後悔」と言う概念は無いのではないでしょうか。

なぜ人間だけがこのような概念を持っているのでしょうか。

その原因としては、脳みそが発達しすぎてしまったからではないかと思ったりもします。 
脳みそが発達してしまったがゆえに、本来持っていなかった「概念」を人間は「妄想」しているのではないでしょうか。そしてその「妄想」におびえているのです。
ないものにおびえているのです。

そして、それらの「概念」が生まれた原因は「言葉」というものをもってしまったからかとも考えたりします。

過ぎ去った時間に「過去」と名づけてしまったことにより、あたかも「過去」というものが存在しているように私たちは思ってしまいます。そして過去を後悔します。
これから来る時間に「将来」と名づけてしまったことにより、あたかも「将来」というものが存在するかのように私たちは錯覚し、将来を不安に思ったりしてしまいます。

言葉を持たない動物たちには、「過去」や「未来」、「後悔」や「不安」などという概念はないのだと思います。

私は、動物はやらないけど人間はやっていることを、常に疑ってかかることにしています。

ちょっと、極端な話でしたが、極端な例で考えてみると、結構いろいろなことが見えてくるような気がします。



2006/5/3 何のために生きているのか
仏教も、奈良仏教から平安仏教あたりと、鎌倉仏教以降ではなんとなく趣をことにしているように感じます。
つまり空海までと、最澄以降という分け方なのですが。
私のイメージでは、空海までは極彩色、最澄以降はモノトーンというイメージがあります。あきらめの傾向は、最澄以降に出てきたようにも感じます。 

空海までは、煩悩即菩提、などという考え方もあったようで、必ずしも煩悩が否定されていないようです。
煩悩こそ生きるエネルギーで、煩悩即悟りの境地と言う感じでしょうか。
そしてこれは私の解釈ですが、その煩悩を抑えようとする戒律こそ、苦しみの原点であると言ったような感じでしょうか。

動物は本当に自然ですね。寝ているか食べているかです。
人間は寝ているか食べているかだけでは気が狂ってしまうのではないでしょうかと思うこともあります。だから人間は本を読んだり旅行に行ったりテレビを見たりするのでしょうか。

「気晴らし以外の何を人々はしているのだろう?」とパスカルは言ったそうです。
つまり人間の行動の99%は気晴らしなんだそうです。

読書も旅行もショッピングもパスカルから言わせれば全て「気晴らし」なのでしょう。 

もしかしたら「働くこと」も気晴らしなのかもなどと考えたりもします。

三年前ほどに、人間にとって一番大切なのは「自由だ!」と思い、一念発起して会社を辞めましたが、一年ほどプータローをしているうちに、だんだんと気が滅入ってくるのを体験しました。やることが無くなって来たからです。

どうして人間は気晴らしが必要なのかはまだよくわかりません。

人間も動物も、何のために生きているのでしょうか?この問題も難しい問題ですね。
ちょっと思うのは、この世での体験や智慧を次の世代に引き継ぐために生きているのかかななどとも考えます。

唯識に阿頼耶識という考え方があります。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識

ここには、あらゆる生きとしいけるものが、宇宙開闢以来経験してきた事柄が全て蓄積されていると唯識ではうたわれます。ここに新たな経験や智慧を植えるために私たちは生きているのかもしれないなどと考えることもあります。
そしてこの阿頼耶識の構造は、量子論で出てくる波動関数の構造にとっても似ています。 

量子論の波動関数には、あらゆる電子や光子が辿ってきた経路や履歴が全て畳み込まれると言う構造になっております。
この波のことをファインマンは、宇宙の全ての歴史を含んでいる巨大な波動関数と呼んでおります。
この波動関数は、過去の履歴を畳み込んだ形で単独の関数として表現されておりますので、宇宙の将来に対する全ての歴史の効果は、この単独の巨大な波動関数から計算されるのです。

そして、この波は、宇宙の中の全ての場所と、未来も含めた歴史の中の全ての時刻とが相互依存する形で記述されていますので、私やあなたがもし存在しないと、宇宙の過去や未来が変わってしまうといことになるのです。

これに気付いた時、私の今の行動が、もしかしたら未来を変えることが出来るのかもしれないし、過去すらも変えることが出来る?!のではないかどという楽しい気持ちになりました。 

従いまして、私の感覚の中には、もう終わってしまった過去やこれから来るであろう未来という感覚が薄れており、「未来も過去も一斉に決まっている」といった感覚が強くなっています。
そして、これを決めているのが現在・今の行動なのです。結局今しかないのではないかと思ったりもします。

ですので、将来に対する不安と言うものも薄らいできました。今の行動によって、未来はいくらでも変わるからです。
過去に対する後悔も薄らぎました。今の行動によって、過去もいくらでも変わる?!からです。

頭がおかしいようですが、量子論の波動関数はそんな形で記述されているのですからしょうがないのです(笑)。

量子論の波動はあらゆる空間に拡がっていると共に、あらゆる時代に拡がっていますので、今この場所の波動を動かしてみると、あらゆる空間と時代に影響が及ぶといったイメージです。

死には終わりというイメージがあるからでしょうか普通の方は死などを恐れることになりますが、決して死は終わりではなく、連続した事象の一つに過ぎないような気もします。
肉体が滅びたとしても、阿頼耶識あるいは波動関数といってもよいのですが、この中に、脈々と私たちの経験が生き続けます。そしてその波動関数の中からまた生命が生まれるのでしょうか。
その生命には、宇宙開闢以来の生きとしいけるものの経験や智慧あるいは意識が全て詰まっています。つまり死は終わりではなく、少なくとも肉体が滅びるだけで意識は連続しているのではないかと考えたりもします。

死は悲しむべきものではないような気が最近はしています。
また少し極端な話になっていますので、若干捨象して受け取ってくださいね。

「アルプスの山岳地域における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。 
君のまわりに一面に草の茂った斜面があり、あちらこちらに突き出た岩がいくつも見えている。
谷のむこう側の、ごろた石で覆われた斜面には、榛の木の藪が低く茂っている。木々が険しい谷の両側をはいあがり、木のとだえた牧草地の境界線にまで達している。そして君と向かいあって、深遠の幽谷からそそり立っているのは、万年雪をいただいた高く力強い山頂である。
そのなめらかな雪原と鋭く切り立った岩山の頂きは、この瞬間の落日の最後の光線によって、このうえもなく淡いバラ色に彩られている。ものみなすべてが、明るく淡い透き通るような空の青さを背景に、不思議なくらい新鮮である。
君が見とれているものはすべて−われわれの通常のものの見方によれば−君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのちに−それはそう長い間ではない−君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けることであろう。 
かくも突然に無から君を呼び覚まし、君にはなんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどに古いものである。幾千年もの間男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。 
おそらく百年前にも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から生まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。
はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の 自我ではなかったのだろうか。・・・」(わが世界観 エルビンシュレディンガー より抜粋)





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