続、雑感

2005/10/1 ものを見るということ
例えば夢の中でも、縦横高さの空間と、時間を認識しているということは、その認識の対象となっているなにかは、ただ単に振動の干渉パターンであるという可能性もあります。その振動の干渉パターンの世界には、もはや空間と時間の概念はありません。

これは数学で言うフーリエ変換の関係です。「認識の対象」と「わたくしたちの最終的な認識」との間の、「視覚」や「神経系の伝達機構」のどこかに、このフーリエ変換の機構があるとするならば、わたくしたちが認識している対象は、時空的なものではなく、ただの振動の干渉パターンであります。そして「視覚」か「神経系」かのどこかで、フーリエ変換された結果、脳などにおける最終的な認識が、今見ているような時空的なものになっている、という可能性も考慮に入れる価値はあると思っております。

振動の干渉パターン⇔フーリエ変換⇔時空的なもの

という関係があります。

>「宇宙とは波動の干渉パターンがフーリエ変換された結果、時空的なものとして
>認識されたもの」でよろしいのですか?

正確に表現すれば、「波動の干渉パターン」であり、「全時空の出来事が時空小領域にばら撒かれ、畳み込まれたもの」でもあります。宇宙は、「振動数的なもの」(これはエネルギーと運動量の世界)として表現されると共に、一方で「時空的なもの」(これは時間と空間の世界)としても表現されます。そして、これらはフーリエ変換で結びついています。
そして「見る」などという行為を行って「場所や時刻を知ろうと」この宇宙に働きかけると、現象は「認識の過程で、時空的なものとして披き出され」て来ます。
「波動の干渉パターン」や「畳み込まれたもの」は般若心経の「空」に対応し、「認識の過程で時空的なものとして披き出されたもの」が「色」に対応するのかもしれません。また、デビッド・ボームの言葉を借りれば、前者は「内蔵秩序」、後者は「顕前秩序」ということでしょうか。前者に働きかけることにより、後者が現れてくるという理解です。量子論の経路積分では、前者はexp(iS/h)として表現され、後者の「現象」は最小作用の原理というものにしたがって現れています。

「ものが存在するからものを見ることができる」というのは誤解である可能性があります。
確かに「一対一の写像変換」的概念しかないと、「ものが存在するからものを見ることができる」という考えに陥ります。
「一対一の写像変換」的認識というのは、例えればレンズでの認識です。
「物体がレンズを通して像を結ぶ」、その像を認識しているという考え方です。

しかし、この世界は実はそんなには単純ではないことが、量子論で分かってきました。
実は「多対一のマトリックス変換」で、この世が構成されているという可能性の萌芽です。
「一対一の写像変換」がレンズであれば、「多対一のマトリックス変換」はホログラムです。
時空全体が、おのおのの時空小領域にばら撒かれ、畳み込まれるという構造です。
畳み込まれたなにかは、もはや時間と空間の概念を持たず、それは振動の干渉パターンです。
その畳み込まれた振動の干渉パターンに働きかけ、「視覚」か「神経伝達系」かを通すことによって時空構造が再構築され、最終的に脳などで認識されることになるという考え方です。
わたくしたちが対象を認識する際に、この干渉パターンに働きかけてしまうため、畳み込みの元ねたとなった時空構造が、そのまま再現されることには必ずしもならないし(これが経路積分における最小作用の原理)、元ねたとなった時空は、まさに全空間と全時間にわたって遍在しているものである(経路積分におけるexp(iS/h)、S = ∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')、全時空にわたって足し合わせている点に注意)、というのがこのパラダイムシフトの醍醐味です。
認識対象である干渉パターンには時間の概念はないため、因果律なども最終的に脳などで認識された結果の中にしか存在しないのかもしれません。

もはや、幾何光学的な知識だけでは、「認識」について語るには十分ではありません。
フーリエ変換と、フーリエ変換における畳み込み積という概念が、「認識」を理解するうえで必須となります。



2005/10/2 新しき仏陀は物理学者?
ウェーバー
今まで語り合ってきたことを結び合わせるために、仮定の例を考えたいと思います。それを科学空想物語か哲学空想物語と呼んでおきます。いま一人の物理学者がいて、かれは立派な仕事をしており、ノーベル賞に値する器量の持主だとします。そこでその粒子物理学者がノーベル賞を獲得し、その後の人生で意識を深く窮めて仏陀に等しい人物になる。わたしの考えではこの人はノーベル賞級の物理学者であり、同時に「ノーベル賞級」の霊的人間でなければならない。かれは完全に両方の達人です。かれが望めば普通の物理学者、普通の神秘家が語りえないような、どんなことを語ることができるのだろうか。わたしが特に質問したいのは、かれはそれ以上のことを知っているのだろうかということです。かれの有利な点は、一方のパラダイムを他方によりうまく関連づけることができるということでしょうか。・・・・・・
かれは物理学の言葉と神秘主義の言葉の間のかけ橋、ないしはそのモデルを作り出すことができるでしょうか。一方の世界を他方の世界にいる人によりよく解釈してみせることができるでしょうか。

カプラ
ひとはできると考えるかもしれませんが、それは物理学者の種類によります。もしニールス・ボーアのような人物の話をしているのなら、ボーアが実際にそうであったように言葉に困るでしょうね。もしファインマンのような人物の話でしたら、それはほとんど明辞矛盾です。なにしろファインマンはこの神秘主義全体に強く反対していますから。

ウェーバー
それは知っています。しかしこれはわたしの考えた科学空想物語の例だったのですから、思うままに推測してもかまわない筈でしょう。

カプラ
いいでしょう。ではファインマンと仏陀を一人の人に結びつける遺伝工学をちょっとやってみましょう。そうするとかれは有利な点をもつでしょうし、科学的言語にうまく接合する言葉で神秘的体験を解釈できるでしょう。数学上のモデルを提案することが問題であるならば、立派な物理学者であるわけですからそれもうまくやってのけるでしょう。

「空像としての世界」(ケン・ウィルバー著、青土社)
\ 物理学は神秘主義へ向かう『タオ自然学』再考 フリチョフ・カプラとの対話 聞き手 ルネ・ウェーバー
新しき仏陀は物理学者?(p439〜p441)より転載

「空像としての世界」を読み直していたところ、こんな文章があったので、雑感に載せてみました。
ファインマンの神秘主義に対する姿勢が、「なにしろファインマンはこの神秘主義全体に強く反対していますから。」というものであったというのは、けっこう驚きでした。経路積分というとてつもない量子論の解釈方法を構築したにもかかわらず、神秘主義に向かわなかったファインマンの科学に対する強い信奉にあらためて脱帽しました。(ニールス・ボーアやシュレディンガー、ハイゼンベルグは東洋思想からかなりの影響を受けていますが。)
それ以上に、タオ自然学の著者で有名なフリチョフ・カプラが、ファインマンと仏陀を遺伝子工学で一人の人間にした仮想の人物を考察しているところに、ある種の感動を覚えました。



2005/10/8 プラトンの洞窟の比喩
**************************************************
プラトンが語った「洞窟の比喩」

我々の現状は、地下にある洞窟のような住まいにいる人間である。
そこで人間たちは子供の時からずっと手足も首も縛られていて、洞窟の奥の壁だけを見ている。首を回す事も出来ない。
彼らの背後には火が燃えていて、その手前に低い壁状のものがあり影絵の人形のようなものが声と共に動かされている。
彼らは目の前の壁に映された「影」以外の姿を見たことがないので、「影」こそが真実のものであると信じて疑わない。
音さえ彼らの前の壁に反響して前から聞こえてくるのだから尚更である。
*************************************************** 

わたくしも投影あるいは写像という仕組みがこの世界の重要な役割を担っていると思います。
そして、これは一対一写像ではなく、多対一の写像です。
これはフーリエ変換そのものであり、フーリエ変換における畳み込み積です。フーリエ変換では全時空構造が振動数領域に写像されますし、畳み込み積では全時空構造が時空小領域に写像されます。
これを逆写像するか、あるいは重ね合わせるかによって、実際に私たちが見ている現象が顕現することになるという仕組みがあると思います。少なくとも量子論の経路積分では、このような概念がばんばん出てきます。

「2005/10/1 ものを見るということ」では、 
*****************************************
「ものが存在するからものを見ることができる」というのは誤解である可能性があります。
確かに「一対一の写像変換」的概念しかないと、「ものが存在するからものを見ることができる」という考えに陥ります。
「一対一の写像変換」的認識というのは、例えればレンズでの認識です。
「物体がレンズを通して像を結ぶ」、その像を認識しているという考え方です。
しかし、この世界は実はそんなには単純ではないことが、量子論で分かってきました。
実は「多対一のマトリックス変換」で、この世が構成されているという可能性の萌芽です。
「一対一の写像変換」がレンズであれば、「多対一のマトリックス変換」はホログラムです。
*******************************************
などと申しておりますが、この「多対一のマトリックス変換」と言う言葉を私が使う時、映画「マトリックス」を意識して使っております。映画「マトリックス」は一説によりますと密教映画であるそうです。密教で重要な曼荼羅の「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」はそれぞれ英語で、「マトリックス」アンド「ダイヤモンド」ですからね。
例えば、数式ばかりで大変恐縮なのですが、わたくしのホームページの「経路積分両界曼荼羅」というちょっとおかしな名前のページをご覧になっていただきますと、光のエネルギーの式が、二通りでかけることを示しています。上はk(波数)とω(振動数)ばかりで書かれていますので、「全時空構造が振動数領域に写像された表式」で、下はr(空間)とt(時間)ばかりで書かれていますので、「全時空構造が時空小領域に写像された表式」です。この世を波動と捉えますと、同じものを実に様々な表式で表わすことができます。同じものをある側面から見ると時空的なものとして捉えられ、また別の側面から見ると振動数的(あるいはエネルギー的)なものとして捉えられるといった具合です。

プラトンの洞窟の比喩に出てくる「影」は、色即是空の「色」であり、デビッド・ボームの「顕前秩序」であり、あるいは経路積分で言いますと、最小作用の原理の結果顕現した、「現象」ではないかと思います。
この背後には、「現象」を顕現させる「仕組み」があります。そして、そこで重要な役割を担っているのが、「多対一で写像されたもの」です。

「一粒の砂の中に宇宙を見よ。
一本の野の花に天国を見よ。
掌の中に無限をつかめ。
そしていっときの中の永遠をつかめ」 W.ブレイク



2005/10/8 波動関数と阿頼耶識
量子論の波動関数には、阿頼耶識と似た性質があります。
三つの量子論のうち(ネルソンの確率力学も含めれば四つの量子論のうち)シュレディンガーの波動力学やハイゼンベルグの行列力学では気が付かないのですが、ファインマンの経路積分の方法を用いてみるとその性質が現れてきます。
経路積分で波動関数を書いてみますと、
Ψ(r,t) = ∫drnG(r-rn,t-tn)∫・・・∫dr1G(r2-r1,t2-t1)∫dr0G(r1-r0,t1-t0)Ψ(r0,t0)
という形になりまして(数式を使ってすいません。)、宇宙開闢から現在に至るまでの出来事がたどってきた、あらゆる経路と歴史を畳み込むと言う形に波動関数は書けます。G(r-r',t-t')は伝播関数と呼ばれるものでして、「時刻t'からtにおいて出来事がr'という場所からrという場所に伝わった」という事を表わしているものです。
分かりやすいように例え話をしますと、自宅(例えば東横線沿線に住んでいるとして)から渋谷まで行く時に、経路はいくつか考えられると思います(東京近郊以外の方、ごめんなさい)。
G(r1-r0,t1-t0):自宅のある駅から横浜(東横線)
G(r2-r1,t2-t1):横浜から品川(京浜東北線)
G(r-rn,t-tn):品川から渋谷(山手線)
あるいは、
G(r1-r0,t1-t0):自宅のある駅から自由が丘(東横線)
G(r2-r1,t2-t1):自由が丘から二子玉川(大井町線)
G(r-rn,t-tn):二子玉川から渋谷(田園都市線)
あるいは、
G(r1-r0,t1-t0):自宅のある駅から武蔵小杉(東横線)
G(r2-r1,t2-t1):武蔵小杉から目黒(目黒線)
G(r-rn,t-tn):目黒から渋谷(山手線)
など様々な経路があります
Ψ(r0,t0)は自宅にいるわたくしの状態
Ψ(r,t)は渋谷にいるわたくしの状態
です。
つまり、経路積分は、次のようなことを言っています。
自宅にいるわたくしの状態をスタートとして、自宅から渋谷に至るあらゆる経路と歴史をすべて順番に畳み込んでゆくと、渋谷にいるわたくしの状態が決まる、と言うものです。畳み込みとは周波数特性を調べる時などによく出てくるフーリエ変換で言うところの「コンボリュージョン」そのものです。
つまり、渋谷にいる私の状態には、実際にたどった経路のみではなく、たどる可能性のあったあらゆる経験が畳み込まれていると、波動関数は言っているのです。
この波動関数のことをファインマンは、宇宙の全ての歴史を含んでいる巨大な波動関数と呼んでおります。

一方、阿頼耶識とは、以下のようなものだそうです(仏教の方はそれほど詳しくないので、文献から引用します。)
***************************************************
「阿頼耶識とはサンスクリット語のアーラヤという言葉を音写したもので、漢訳すると蔵識といった意味になります。何を貯蔵するのかというと、自分が生まれてからこのかた、泣いたり笑ったり怒ったりしたすべての経験を貯蔵しているのが阿頼耶識であります。自分が生まれた以降ばかりではなく、自分の両親の経験、そのまた両親の経験というように遡ってゆくと、人類が発生して以来の全ての経験を蔵しているのです。人間ばかりではなく、人類になる以前であるとか、さらに遡って、アメーバ以来のすべての経験を蔵しているのであります。宇宙開闢以来のあらゆる経験を貯えているのが阿頼耶識なのであります。」−華厳の思想(鎌田茂雄著。講談社学術文庫)−より抜粋。
***************************************************

わたくしは、ここに量子論の波動関数と阿頼耶識の類似性を見ています(ミクロとマクロの違いはあるのですが、「プランク定数(h)→0あるいは作用/プランク定数(S/h)→∞」という極限のもとで、マクロな世界もミクロな世界の連続であるとわたくしは考えています)。
現在の波動関数には、宇宙開闢からの出来事が畳み込まれております。波動関数は、宇宙開闢から存在しています。一方、阿頼耶識は九識のうちの一つであり、宇宙開闢以来存在しているとされています。
「宇宙開闢から、阿頼耶識あるいは波動関数は存在しておりました。」というのがわたくしの自論です。
阿頼耶識と波動関数がほんとうに等しいものなのか、ただ類似しているだけのものなのかについては、誰にも分からない、ということも告白しておきます(そしてこのあたりこそ、科学と仏教が歩み寄って対話を進めてゆくべきポイントであると考えています。)。ただ、あらゆる出来事(可能性の含めて)を畳み込んだ波動関数が宇宙開闢から存在したことは、量子論で明らかです。



2005/10/8 唯波動と無自性
私は、自分のホームページの「まえがき」で言っているように、正確に言えば、唯波動論者なんです。

私たちは、言葉で話さなければならないため、あらゆるものに「名前」をつけていますが、実はこれが厄介の始まりなんです。

これは鉛筆、これは手、これは脳、などというように、「名前」(あるいは「ラベル」)をつけて、ものを分割して認識するという習性が私たちにはあるのです。これがあらゆる誤解のもとであると仏教は言います。

脳とはいったいなんでしょうか、脳をよーく見ていくと、神経でできており、神経をよーく見ていくと分子でできており、分子は原子で、原子は原子核と電子で、原子核は陽子と中性子とゲージ粒子で、さらにはレプトンやクォークでできていると言う具合になっていますが、現代物理では、結局、これらはゲージ場(電磁場やクラインゴードン場)やディラック場、などと言うように、場の変動になってしまいます。つまり大海の波ですね(そしてこの波が伝播関数なのですが。)。
素粒子の自性をご覧になったことはありますか?
電子や光子があるじゃないかというかもしれませんが、こんなのも教科書や雑誌に何か球体で絵が描いてあるものを見ただけでですよね、結局。
あるいは、ガイガーカウンターがカチンと鳴った音か、加速器の中の飛跡くらいですよね、せいぜい。
そして、カチンと言う音や、飛跡とは、電子や光子そのもの(自性)なのでしょうか?
繰り込み理論では、電子の質量なんて、無限大から無限大を引いた差として記述されています。
イメージとしては、電子なんて、大海の「なみがしら」程度のものではないでしょうかね。比較的安定して長い時間「なみがしら」の形を保っている程度のものなのでは?湘南海岸の波はすぐ消えてしまいますが、カリフォルニアのポイント岬に現れるビッグウェンズデイがその形状を比較的長い時間保っているのと同じように。
「なみがしら」の体積を計算せよと言われても、どこからが「なみがしら」でどこからが「海」なのか分けることは出来ませんね。あえて言えば、「なみがしら」を含めた「海」から「なみがしら」をのぞいた「海」を引いたものが「なみがしら」です。
「なみがしら」を含めた「海」も無限大。
「なみがしら」をのぞいた「海」も無限大。
無限大から無限大を引いてみると、「なみがしら」という「物」が一応表現できるわけですね。
そして、その「なみがしら」に、ご丁寧に「電子」だの「光子」だの「クオーク」だのと「名前」あるいは「ラベル」をつけているだけなのでは。
こう考えると、この世は、ほとんど、場と言う大海のうねりで、そこから現れては消え現れては消えしている波が存在しているだけのような気がしますよ。究極的には。
そして、それらの波は大海の隅から隅で相互に影響を及ぼしあっており、その相互に及ぼしあっている影響が、たまたまうまい具合に波を強めあう方向に働くと、そこに比較的安定的な波が作り出され、私たちはそれに「物」あるいは「物質」という名前をつけているだけじゃないんですかね。
そして、「電子」と名づけられた波、「クオーク」と名づけられた波達が重なり合って、更に比較的長い時間その形状を保つ波を形作りそれにつけられた名前が「原子」、「原子」と名づけられた波達が更に重なり合って、更に安定的な・・・・・・と言う具合になって、冒頭の経路を逆にたどって、「分子」「神経」「脳」と言う具合になっているのではないでしょうかね。究極的には、大海の波の相互の影響の結果、ただ出来事が存在しているだけ。

「脳などというものも、場と言う波の変動と相互作用の結果、たまたま脳というものが出来ちゃった」、くらいに考えた方がいいのでは。
経路積分を考えていると、ほんとこんな気がしてきますよ。

ただし、この波は、大海の波のように穏やかな波ではありませんよ。ワインオープナーのあの螺旋の部分がものすごい勢いで高速回転しているイメージですからね。ですので、いま触っているキーボードなどには、ある意味物質的な質感があるのではないでしょうか。高速回転のワインオープナーに私たちの手はあるいみはじき飛ばされているわけですからね。

こういった意味で、私は唯波動論者なのです。まず波動関数ありき。。。
そして、唯波動と唯識が似てるため、唯識に興味を持ってます。
例えば、この「大海の波の相互作用」は、華厳経で言う「重々無尽」であります。



2005/10/16 「ホーキング、宇宙のすべてを語る」より
********************************************************************
重力に関する量子論を私たちはいまだに得ていませんが、しかしその理論が持っているはずの多くの特徴は確かにわかっています。その一つは、量子重力理論では量子論をファインマンの経歴総和法で定式化するべきだという点です。究極の理論に含まれるであろう二つ目の特徴は、アインシュタインが示したように重力場は曲がった時空によって表わされるということです。粒子は曲がった空間内を直線に最も近い経路に沿って動こうとしますが、時空は平坦ではないため、その経路はあたかも重力場の影響を受けているかのように曲がって見えるのです。ファインマンの経歴総和法をアインシュタインの重力場に適用すると、粒子の歴史が、宇宙全体の歴史を表す曲がった全時空に対応します。(p166)
********************************************************************

********************************************************************
ファインマンの総和法では、すべての歴史が全時空とその中のあらゆる物質を含んでいます。(p189)
********************************************************************
以上、「ホーキング、宇宙のすべてを語る」(スティーブン・ホーキング/レナード・ムロディナウ著 ランダムハウス講談社)より転載。

ファインマンの経路積分における、ある瞬間の波動関数には、宇宙開闢から未来永劫までと、宇宙の隅から隅までが含まれており、さらにその波動関数には、あらゆる時空の中に存在するすべての物質が含まれています(管理人注)。
 



2005/10/30 経歴総和法
地球や野球ボール、電子が存在し、太陽と地球、地球と野球ボール、原子核と電子の間に力(重力や電磁力)が働いているので、それぞれの軌道が決まる、という順序のものの考え方を改める必要があります。

実際は、この考えの逆を辿るのが良いようです。つまり、
まずはあらゆる軌道があります。その中から存在を強めあったもののみが、実際に現れる軌道になります。その軌道だけに注目すると、あたかも力が働いているかのようにモデル化しても、良い近似になります。

物と物との間に力が働くと言うのは、軌道と言うものを説明するための単なる粗雑なモデル(荒い近似)の一つにすぎません。

実際には、あらゆる軌道を通っていますが、存在を強めあう軌道だけが実際に現象として現れると考えた方が良いようです。

少なくとも量子論では。 

粒子は時空上のあらゆる可能な全ての経路にそって一つの位置からもう一つの位置まで移動するとファインマンは提唱しました。それぞれの経路に対して、ファインマンはまず二つの数をもたせました。第一は波の振幅で、第二は波の位相、つまり波が山になっているか、谷になっているかを示す数値であります。粒子がA点からB点に到達する確率は、それぞれの経路がもっている波を足すことで計算することが出来ます。しかし、日常の世界では、粒子は出発点から一つの決まった経路を通ってしか最終点に達しているとしか見えないのであります。しかし、これはファインマンの経歴総和法というアイディアに反するものではありません。日常生活で見られるような大きな物体の運動では、ファインマンの規則であらゆる経路、歴史に対して波が割り振られます。しかしそれらを合わせるとほとんどは互いに打ち消しあってしまい、残る経路は一つになってしまうのであります。巨視的な物体の運動の場合には、無限にある経路、歴史の中で残るものは、古典的な法則であるニュートン力学で計算して出てくるもの、そのものなのであります。

ビリヤードの玉の動きや、投げ上げたボールの動きなどは、まさにこの様な仕組みで軌道を描いているのです。

あらゆる経路、歴史に対して割り当てられた波を足し合わせると、波が強めあったり打ち消しあったりします。その結果残った波が軌道になります。
質量が大きくなると、軌道のボラティリティーは小さくなり、質量が小さくなるに従って、軌道のボラティリティーはどんどん大きくなってゆきます。
つまり、質量が大きい古典力学の世界では、粒子のたどる経路のボラティリティーが小さいため「軌道」がはっきりと見えるわけですが、質量が小さい量子力学の世界では、粒子のたどる経路のボラティリティーが大きいため、電子は雲のように拡散してしまい、どこを通っているのかよくわからなくなってしまいます。つまりはっきりとした「軌道」が定まらないということになります。

マクロな現象を扱う時には、このように軌道がはっきりしているため、そこに「力」が働いているとしてニュートン力学などの古典的な簡易なモデルで計算しても、良い精度で一致しますが、ミクロな現象は、電子雲のように、もはやはっきりとした軌道はわからなくなってしまうので、「力」が働くので軌道が決まる、と言う考え方では、もはや現象を説明できなくなってしまいます。そこで登場するのが量子論ですが、この量子論の中で最もイメージとしてわかりやすいのが、このファインマンの経路積分量子化の方法です。

大学で、物理を専攻しても、そしてたとえ、量子論を専攻しても、経路積分まで教えている所が少ないのは、大変残念です。
シュレディンガー方程式やハイゼンベルグの行列力学がせいぜいで、場の量子論まで教わったとしても、生成消滅演算子による方法までしか教えてもらえません。一説によると、ファインマンはこの生成消滅演算子によって記述される場の量子論がどうしても納得できなかったそうです。そこで、わからなければ自分で新たな場の量子論を作ってしまえ、と言うことで、伝播関数(グリーン関数)だけで記述できる経路積分量子化(量子電磁力学)をあみだしたといわれています。

電子の軌道は波の足し合わせとして現れる。
マクロな物体に関しても原理的には同じであるものの、打ち消し合い方が変わるので目に見える軌道となって古典力学の範囲で説明できる。

この事実は本当に面白いです。物が存在し「力」が存在するから運動が決まる、と我々が高校の時から教わってきた常識を、完全にひっくり返される発想なのです。

経路積分は、超ひも理論やM理論、量子重力場理論の基本言語にもなっているようですから、現代物理ではとっても大事な道具なのです。
アルファベットを知らないと英語を書いたりしゃべったり出来ないように、経路積分という道具がないと、超ひも理論やM理論を語ることは出来ないようです。私も、超ひも理論やM理論は全くわかりませんが(笑)。
 



2005/10/30 ヘルムホルツの自由エネルギー
統計力学に出てくるヘルムホルツの自由エネルギーは経路積分の伝播関数(グリーン関数)と密接に結びついています。
自由エネルギーをF、ボルツマン定数をk、絶対温度をT、伝播関数をG(r-r',t-t')、rは3次元の位置ベクトル、tは時刻、iは虚数単位、hはプランク定数としますと、
exp(-F/kT) = ∫d^3rG(r-r,t-0) ここで t = -ih/kT ・・・ @
という関係が成り立ちます。
自由エネルギーのボルツマン分布は、伝播関数を全空間について積分したものと等しい、という関係です。
そしてこれは、ファインマン−カッツの公式と呼ばれ、経路積分を統計力学と結びつけて考えることを可能にした画期的な公式なのです。(経路積分で時間を負の虚数時間にすると、統計力学になってしまうのです!ホーキングもファインマンの経路積分で時間を虚数にすることで収束がよくなることに気付き、宇宙の始まりは虚時間だったと提唱しました。) 

Uを内部エネルギー、Tを温度、Sをエントロピーとしますと、ヘルムホルツの自由エネルギーは、
F = U - TS
と書けまして、自然はこのヘルムホルツの自由エネルギーが減少する方向へ進みます。
温度が高い時は、第二項目が効いてきまして、エントロピーが増大する方向へ、温度が低い時には第一項目が効いてきまして、エネルギーが安定する方向へ自然は動きたがると言う法則を表しています。もしかしたらこの自由エネルギーは、時間の流れる方向と何か関係があるのかもしれません。そしてこの自由エネルギーが経路積分の伝播関数と密接に結びついているのです。@式で、左辺のヘルムホルツの自由エネルギーFが減少すると、右辺の伝播関数の空間積分は増大します。つまり、自然は伝播関数の空間積分が増大する方向に動きたがると言うことになります。

経路積分の考え方は、宇宙のより基本的な仕組みの中に組み込まれている考え方のような気がしてなりません。



2005/11/3 数式のマジックによる詭弁
私のホームページをご覧になったかたから、以下のようなご意見をいただきました(この投稿の中のkegonとは私のことです。)。

*****************************************************************************
必要もないのにむやみに数式を使うのがkegon式詭弁術の特徴です。

物理理論を記述するのに数式は不可欠であり物理の専門家は学術論文や専門書において数式を駆使しています。
しかし、物理学者が一般向けに本を書くときは数式や特殊な専門用語を出来るだけ避け、解り易く説明しています。
アインシュタイン、ファインマン、ホーキングなど一般人向けの名著を残しています。

相手が数式を理解出来無い素人と見ると逆に数式を使うのがkegon式です。
自分の専門能力が高いことを見せつけて相手を心理的に威嚇したり煙に巻くためでしょう。

kegon氏のホームページを見ると数式が詐術的に使用されています。
たとえば、一般人にとても理解出来ない経路積分の数式をずらずら並べた後、突然次ぎのような結論を出すのです。

『華厳経の「毛穴の中に含まれる全宇宙、一瞬の中に含まれる永遠」の考え方は、ファインマンの経路積分における源泉関数と伝播関数の畳み込み積(全空間と全時間における足し込み)に対応しますし、唯識の考え方は、状態ベクトルの足し合わせの過程でこの加算に大きく寄与している部分がこの世に現れている現象であるという経路積分の考え方と対応すると考えています。』

しかし、最も肝心な「何故これらが対応しているのか」については何も論証しておりません。
数式を使っているのだから「毛穴の中の宇宙」に至るまでの対応を数式で論証するのが筋なのですが。
単に感覚的にそう思う程度の話で数式で論証出来ないのなら始めから数式など使う必要はないのです。

一般に宗教の経典や予言集などは曖昧な表現や比喩的表現が多用されています。
「毛穴の中云々」は典型的な例です。
kegonさんはこれらの比喩的表現を恣意的に解釈して「仏教は2000年以上も前に量子論や経路積分の考えを持っていた」と強引に結論づけたいようです。
しかし具体的根拠が乏しくて単なるコジツケ解釈です。
「阿頼耶識は、波動関数です」なども典型的なコジツケです。

400年以上前にノストラダムスが書いた1000編もの四行詩は難解で曖昧な表現です。
これを後知恵で強引に解釈して、ノストラダムスは「ケネディ暗殺、原爆投下、ヒットラーの出現など」を正しく預言していたと書いた本が以前ベストセラーになりました。
コジツケに過ぎないのですが今でも信じている人が結構いるようです。

kegonさんはコジツケ解釈をカモフラージュするために数式を並べ立てているだけです。
数式自体は教科書に載っていて正しくても数式はkegonさんの主張の何の証明にもなっていません。
しかし、自分には理解出来無い数式を見て、物理学を専門に学んだ人が言っているのだから正しいのだろう、と勘違いする人も現れているようです。

数字のマジックと言う言葉が有りますが新手の「数式のマジック」による詭弁に注意すべきでしょう。 
*****************************************************************************

以上のような投稿に対しまして、以下のようなお答えをいたしました。

*****************************************************************************
非常に手厳しいご意見、大変感謝いたします。
自分のホームページがどのように見られているのかが、大変よくわかります。
おっしゃるとおり、私のホームページは、数式が多くほとんど理解しがたいものであると言うことは否めません。
この反省から、「雑感」や「続、雑感」のページも併せて書いているのですが、思ったことを断片的に書いているので、他の方から見るとわかりにくいのでしょうね。

経路積分と華厳経との関係について、もしもう少し私のホームページを読んでいただけるのなら、
「雑感」の中の、「2005/4/15 現象の現れる仕組み」と「2005/4/16 ものの喩え(場の量子論版経路積分)」とをまずお読み頂きまして、
S=∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t') ・・・ @
という形のものが、自然の仕組みの中で重要な役割を果たしていると言うことを、感じ取っていただけると幸いです。
そして、「華厳の数論」を読んでいただいて、
∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t') ・・・ A
というものが、どのようなイメージのものなのかを、体感していただければ更に幸いです。
「現象の現れる仕組み」というページもありますが、こちらは、若干数式が多目ですので、もしご興味があれば、ご覧になってみてください。このページは数式が多目だったので、「雑感」でご紹介した、「2005/4/15 現象の現れる仕組み」と「2005/4/16 ものの喩え(場の量子論版経路積分)」を、更に数式を減らして書き直してみたという経緯があります。

少し弁解させていただければ、私は、そもそも仏教のことは何も知りませんでした。量子力学の2重スリットの実験が不思議で不思議でたまらずに、こればかりを暇さえあれば考えておりました。そんなこんなで数式をいじくり回しているうちに、@のようなタイプの数式が出てきました。
これが、「現代物理のおかしさ」で書いている、(1)の式です。これは、ただ単に、電磁場のエネルギーの式を変形しただけのものなのですが、r'、t'、r、t について、全て-∞から+∞まで足し合わせるという形に興味を覚えました。あらゆる二時空点間の相互作用として、電磁場のエネルギーが書けるという構造でした。更に、その式の一部分を見てみますと、Aのように、畳み込み積の形にもなっています。全時空が一時空点に写像されるという構造です。
自然は結構面白い構造になっているのだな〜くらいにしか最初は思っていなかったのですが、そんなある日にNHKの「こころの時代」で、東洋大学の竹村牧男先生が、華厳経について話しているのをたまたま見まして、それから仏教にも興味を持つようになりました。
ご指摘の通り、この数式に現れる構造が、全ては相互依存によって成り立つという仏教の「縁起」の考え方や、華厳経の「一即一切」、つまり、「毛穴の中に全宇宙が含まれる、一瞬の中に過去現在未来が含まれる」という世界観と、同じものなのか違うものかは、わかりません。
高僧が瞑想をしても、物理の数式を虚空から取り出すことは出来ないでしょうからね。
ただ、この式に現れる、あらゆる二時空点の相互作用という構造と、全時空が一時空点に写像されるという構造は、とても面白いと思っています。
その後いろいろと調べているうちに、デビッドボームのホログラフィックパラダイムや、ファインマンの経路積分の存在を知りました。ファインマンの経路積分(量子電磁気学)の波の位相に現れる式が、まさに@式でした。

数式を必要としていたのは、どうも私自身だったようです。
私は猜疑心が強い人間なので、数式がないと信じられなかったからです。
順番として、「現代物理のおかしさ」の(1)式に出会って、その後で華厳経に出会ったので、お経もなかなか侮れないという現在の気持ちになることが出来ました。が、もし、華厳経の方に先に出会っていたならば、「なにが、毛穴の中に全宇宙が含まれるだあ〜???、全宇宙が毛穴の中に含まれるなんて、そんなことあるわけないじゃ〜ん!」という感想を持っていたと思います。

あの数式に出会え、華厳経に出会え、ホログラフィックパラダイムに出会え、経路積分に出会えた事で、正直肩から力が抜け、楽な気持ちになることが出来ました。この場所が宇宙の全ての場所と関係を持っており、今という一瞬が宇宙開闢から未来永劫と関係を持っているというような風なので、とても穏やかで壮大な気持ちになれました。

あのホームページは、ほとんど自分のために書いているようなものなのです。私は記憶力が悪いので、忘れないうちに、そして後から読んでもちゃんと思い出せるように書いているようなものです。

仕事などで日常の中にさらされますと、どうしてもニュートン力学的な世界観に自分自身が戻ってしまいます。「個人個人がいて、組織が出来ている」、「部品を組み立てると機械が出来る」、「部分が集まると全体が出来る」というような、「部品がまず先にあって・・・」という感覚です。私にとってこれはとても辛く苦しい感覚でした。個人個人という風に分けてしまうと、そこに個人の「責任」が生じたり、個人の「自尊心」が生じたり、あるいは「孤立感」が生じたりいたします。そこから争い事が生じたりします。

日常にさらされて、こういった感覚が自分の中の大部分を占め始めたときに、自分のホームページを見て、「全体性」や「相互依存性」を思い出すことにしているのです。

数式を必要としていたのは、どうも私自身だったようです。
私は猜疑心が強い人間なので、数式がないと信じられなかったからです。
*****************************************************************************



2005/11/3 量子論の粒子性
量子論の中における「粒子性」という言葉は、とても曖昧な使われ方をしている印象があります。
「光量子」といった場合に、何を思い浮かべるでしょうか?
@エネルギーをhνという塊でやり取りするもの。
A2重スリットの実験でスリットに輝点として現れるもの。
の二つの意味がごちゃ混ぜになっているような気がしています。
@は「エネルギー」が確定している状態であり、Aは「位置」が確定している状態です。光量子の場合、E=cpですので、「エネルギー」Eが確定していれば、「運動量」pも確定します。
量子論では、「運動量」と「位置」の不確定性原理がありますので、「運動量」が確定している時「位置」は全くわからず、逆に「運動量」が全くわからないとき「位置」は確定します。
@は運動量が確定している状態であり、Aは位置が確定している状態ですので、@とAは全く異なる状態ということになります(運動量と位置とを同時に確定することは出来ないので)。
そして多くの教科書で、光量子つまり光の粒子性を述べているところを読んでみますと、おおむね@の意味で述べているものが多いようです。
つまり、「光量子とは、エネルギーをhνという塊で渡すもの」という使われ方です。

ところが、エネルギーをhνの塊で渡すものとは、実は波なのです。
エネルギーをhνの塊で渡すということは、波の性質だけで十分に説明できるのです。
バイオリンなどを考えていただければいいかと思いますが、弦の振動には基本振動、倍振動、三倍振動などのモードがあって、基本振動のエネルギーがhνであれば、倍振動のエネルギーは2hν、三倍振動のエネルギーは3hνということになって、例えば三倍振動が倍振動に遷移する時に、hνというエネルギーを放出します。
電磁場とは、このようなイメージです。これを「電磁場は調和振動子の集まりと同等である」いいます。
エネルギーをhνの塊として渡すことに目をつけ、これを粒子性ととらえ、これに「光量子」と名づけたのはアインシュタインですが、これは、若干、解釈が飛躍しているように私は個人的に思っています。
なにも粒子性を持ち出さなくとも、バイオリンの例のように、波動性だけから飛び飛びのエネルギーつまり量子化されたエネルギーが導き出せるのですから。

以上は、あくまでも私の個人的な見解であることをご注意ください。



2005/11/19 シュレディンガー
たまたま持っている「シュレディンガー選集1 波動力学論文集」をちょっと見てみたところ、シュレディンガーは当初(1926年)、古典的な粒子(質点)とは、波の塊(波束)がその凝集された形状をなんら変えずに運動しているものであることを、調和振動子の運動を例にとりながら証明しています。シュレディンガーはシュレディンガー方程式を発見した頃、粒子とは実は波の塊であるという考えを持っていたものと思われます。
しかしこの波動関数の物理的解釈につきましては、のちに、マックスボルンやニールスボーアによって、確率振幅であると言う解釈、いわゆるコペンハーゲン解釈が提唱され、今でも確率解釈が主流になっております。
しかし、当のシュレディンガー自身は、自分の方程式の波動関数が、確率振幅であると解釈されたことには、最後まで不満を持ち反対していたそうです。波動関数の確率解釈ではなく実在的解釈を死ぬまで主張していました。
ある意味これは当然であると思います。というのは、シュレディンガーは、シュレディンガー方程式を発見する以前から、ヴェーダーンタやウパニシャッドに精通しており、不二の思想を持っていた西洋人だったからです。 



2005/11/19 繰り込み
ウィキペディア「繰り込み」より、
**********************************************************************
電子の質量(自己エネルギー)や電荷を測定した場合、真の電子の質量や電荷とこの真空分極による質量や電荷への寄与の和が得られる。 真空分極による質量や電荷への寄与を量子電磁力学により計算すると、これは無限大に発散してしまう。 そこで真の電子の質量や電荷をそれと逆の符号の無限大とおいて、測定値と理論値が一致するようにする。これを繰り込みという。
**********************************************************************

これは、次のようなことを言っています。

測定された電子の質量(自己エネルギー)や電荷:me(有限値)
真空分極による質量や電荷への寄与:∞
真の電子の質量や電荷:−∞

真の電子の質量や電荷 + 真空分極による質量や電荷への寄与 = 測定された電子の質量(自己エネルギー)や電荷
つまり、
−∞ + ∞ = me
となり、私たちが見ている(観測している)電子の質量や電荷は、無限大ひく無限大で表されると言うことです。

私も世界はそれほど確固としたものではないと感じています。 
電子などは大海から一時的に顕現しているさざ波のようなもの、、、ひいては私たちも、、、



2005/12/23 死生観
生と死は対極の概念のように一般には思われがちですが、私はそれほど大きく違わない概念だと思っております。あるいは連続した概念といったほうがいいかもしれません。
生と死の違いは、よく考えてみるとそれほど大きくないような気がします。これらの違いは、心臓が止まること、脳波が止まること、呼吸が止まることくらいです。
心拍が止まった心臓を構成している細胞を更に細かく見てゆくと、炭素や酸素や水素で出来ていますが、いわゆる死の後でも、炭素の周りでは相変わらず6個の電子が回っておりますし、酸素の周りでも8個の電子が脈々と回り続けています。たとえ体が朽ちたとして土となったとしても、その中では相変わらず同じように炭素の周りを6個の電子が、酸素の周りを8個の電子が回っています。あるいは火葬されたとしても、体から出た煙の二酸化炭素の中では、相変わらず炭素の周りを6個の電子が、酸素の周りを8個の電子が回っています。非常に冷めた表現になってしまい申し訳ないのですが、これくらい連続的なものであり、生と死がそれほどドラスティックな変化ではないことを言いたかったのです。
もしかしたら意識についても生前と死後で連続しているかもしれません。物質がこれだけ連続的なことを考えれば、意識についても連続的である可能性はあると思います。阿頼耶識などには、人生の経験が全て蓄積されているといわれます。それもこの人生だけではないようです。一方で、量子論の波動関数も実は同じような概念になっていまして、電子や光子がたどってきた経路や歴史が全て含まれているというつくりになっているようです。
物理的に考えてみましたときに、私はこんな死生観を持っております。

12月3日に父が亡くなりました。69歳、心不全でしたが、心臓以外は丈夫でして、死の直前まで意識はしっかりしていました。「絶対に病院へは行きたくない。」などと直前まで言っておりました。ただ心臓だけが衰えて、最終的に止まったという感じでした。意識は何かを表現しようとしているのに、意識を表現するための機能が失われたという感じでした。パソコンに例えれば、CPUは情報を送り続けているが、ディスプレイが機能しなくなったので、結果何も表現できなくなったように見えるという感じです。肉体とは意識を表現するための機能に過ぎず、死とはそれが古くなって機能しなくなっただけのことであり、意識と肉体とは分けて考えた方がよいような印象を受けました。パソコンでもディスプレイを交換すれば、またCPUから送られてくる情報を表現できるように。



2005/12/27 やっぱりこの世は波なのか。
粒子が軌道を描いて運動しているとするニュートン力学的な世界観は近似に過ぎません。
その近似の裏側には更に根源的な波動の存在があります。
光学には、幾何光学と波動光学があるのを皆さんはご存知でしょうか。
光の反射で、鏡に対して左から入ってくる矢印と右へ出てゆく矢印を描いて入射角と反射角は等しいなどと言っている時、これは幾何光学でものを言っています。
逆に、左上から右下への平行な直線と右上から左下への平行な直線を何本も書いて波面の様子を言っている時は、波動光学でものを言っていることになります。
また、ヤングの二重スリットの実験などで干渉の様子を描くときは、スリットから同心円状に広がるいくつもの半円を描きますが、あれも波動光学の猫像です。
光の反射や直進性などを語るとき、幾何光学を使っても波動光学を使ってもどちらも正確です。
しかし、光の干渉や回折を説明するためには、波動光学でなければ説明できません。
つまり、幾何光学は波動光学の近似です。波面に垂直な矢印を描けば、ある範囲内の事柄については波動光学を用いなくとも幾何光学で十分であるが、干渉などを論じるとき幾何光学では不十分で、波動光学を用いなければ説明できないということです。

ニュートン力学と波動力学(量子力学)の間にもこの関係が成り立ちます。
つまり、ニュートン力学は波動力学の近似であります。
ルイ・ドゥ・ブロイは「物質と光」(岩波文庫)の中で、「幾何光学に対して波動光学のような関係をもつ新しい力学を、古い力学に対して建設しなければならない」と言っています(p180)。
そして、それは、シュレディンガーやディラック、ファインマンらによって建設されました。
ポテンシャルが存在しない自由空間やポテンシャルの変化が緩慢なところでは、粒子が軌道を描くとするニュートン力学で十分です。
しかし、ポテンシャルに束縛されている状態などを説明するには、ニュートン力学ではだめで波動力学が必要になります。
この場合は、もはや軌道と言う概念は成り立たず、定常波という波動性が際立ってきます。
幾何光学の矢印は波面に垂直な方向に向いていました。
ニュートン力学の粒子の運動の方向(運動量ペクトルあるいは速度ベクトルの方向)も、ある波の波面に垂直です。この状況は、
p = ∇S
と書けます。
Sは作用でして、運動量のポテンシャルの役割をしています。(F = ∇φなどと比較してください。)
山の等高線に垂直な方向に川が流れているように、等作用面に垂直な方向にニュートン力学流の粒子は運動することになっています。
先程「ある波の波面に垂直」な方向に粒子は運動すると言いましたが、この波こそ
ψ = exp(iS/h)
という作用を位相に持つ波でして、この波の波面すなわち等作用面に垂直な方向に古典的な近似としての粒子は運動します。
そして、この波こそ、ファインマンの経路積分で出てくる各経路に付随している波そのものなのです。
古典的な粒子の軌道というのは、あくまでも近似でありまして、より根源的な存在として、この波の存在があるわけです。
こういったわけで、ポテンシャルの変化が緩慢な場合は、軌道で十分説明できますが、原子核に束縛されている電子などを記述するときには、軌道の概念(太陽の周りを回っている地球像)はもはや成り立たず、そこには電子雲と呼ばれる定常波の存在が顕在化することになるわけです。

やはりこの世は波動です。
この世が粒子で出来ていると考えるか、この世は波動で出来ていると考えるかで、どうでしょう、少し気持ちが変わってきますかね?

光の粒子性の実験的証明として、光電効果の話があります。
この世は波だ波だと言ったって、では光電効果はどのように説明するの?とおっしゃる方もいらっしゃると思います。

ルイ・ドゥ・ブロイの「物質と光」(岩波文庫)を読みました。
この中でドゥ・ブロイは、「光電効果の本質は、原子に及ぼす光の作用が光源からどんな距離に達しても同一だというところに存在する。」と言っています(p233)。
しかし、光の波動説をとると、「光源が周囲に球面波を送り出すものだとすれば、送り出されたエネルギーは空間の中に散乱して、光が及ぼし得る作用は距離とともに弱って行くはずである。」(p233)として、「光エネルギーが粒子的な形になって集中しているという思想を採らせるように見える。」(p233〜p234)と言って、光の粒子説も捨てられないということを述べています。
確かに、光の波動が満たす波動方程式の伝播関数は、
(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)
という球面波ですので、距離とともにその振幅は小さくなっていってしまいます。
しかし、この関数を時間で微分して、ある波数ベクトルのまわりでテーラー展開すると、包絡線がデルタ関数で群速度がcの波束になります。(時間で微分するという意味は、エネルギーを観測するという意味かもしれません。E = ihδ/δt からの類推で。)
この波束は、光源からどんなに距離が離れても、振幅は一切減衰しませんし、その形を崩すこともありません。そして、速度は光速です。
更に言えば、観測して光源と測定装置との方向が決まって初めて現れるものです。(これが、ある波数ベクトルのまわりでテーラー展開すると、の意味するところです。)
この波束のことを世間では光子と言っているのではないかと私は密かに考えています。
何かと相互作用をして初めて光子は現れます(観測にかかります)。飛んでいる最中の独立した光子の存在が確認されているわけではないのですから。

この波束は、
「現代物理のおかしさ」
「光の波動性と粒子性、及び波束の収縮についての考察」
「奇跡的な波」
「雑感」の中の「2004/11/15 珍しい波(三次元波動方程式の伝播関数)」
「雑感」の中の「2005/1/16 過去と未来、全宇宙を足し合わせるといまこの場所が現れます。」
などの中で、波動の中から顕現する粒子像としてこれまで私が提案してきたものです。 

古代ギリシャ以来論じられてきた、光は粒子なのか波なのかの問題。私は波であるほうに一票を投じます。
この世はやっぱり波なのではないでしょうか。
私達も定常波(定在波)なのかも。
 
  



2006/1/17 生きて死ぬ智慧
先日(12月30日)にNHKで「あなたのアンコール2005」 で、”いのちで読む般若心経”生命科学者 柳澤桂子という番組を見ました。
彼女の著作「生きて死ぬ智慧」の中では般若心経の「空」について次のような解釈がなされているというお話を聞きました。

「もし あなたが 目も見えず 耳も聞こえず 味わうこともできず 触覚もなかったら あなたは自分の存在を どのように感じるでしょうか これが「空」の感覚です」

この解釈は、とてもわかりやすいなと私は思いました。般若心経の「無眼耳鼻舌身意」の部分の解釈でありましょうが、「空」の感覚が実によく実感できる表現です。深い瞑想に入ったときなどにはこのような感覚に近い状態になれるのではないでしょうか。
また、こんな記述もあるということでした。

「お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで粒子でできています 宇宙のなかのほかの粒子と一つづきです ですから宇宙も「空」です あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです」

原因がわからない病に冒された彼女は、いろいろな宗教に救いを求めた結果、仏教の「空」とは「宇宙は粒子でできていて、全ての粒子がつながっている」ということなのだと気づいたことで救われたとのことでした。
彼女の生命科学者としてのバックボーンが成し得た技だと感じ、ある意味で感動いたしました。
すべてのものが分子でできていて、その中のある部分にはこういう名前がついており、また別の部分にはああいう名前がついているということにすぎないということに、あるとき気づいたのだそうです。
土も木も葉も雨も、テーブルもお皿もコーヒーカップもそして人間もよ〜く見てみれば分子のつながりにすぎないと気づいたそうです。
ここにも、不二の思想に近いものを感じました。全てがつながっており、分けられないという不二の思想です。

ただし、最後に私の意見を述べさせてもらえれば、この「粒子」という解釈は、生命科学者的な観点だなと思いました。あるいは分子生物学者的な観点だなと。
彼女を批判するつもりは毛頭ございませんのでこまかくは述べませんが、「まえがきと更新履歴」のなかで申し上げているように、私のこのホームページは粒子性を否定するところから始まっているからです。
その粒子ですらも、さらにその背後にある波動性から顕現しているにすぎないのです。

物理的な観点で見てみますとさらにエソテリックな世界が見えてきます。



2006/1/22 ストックオプション
ストックオプション制度が導入されている会社が増えてきています。
ストックオプションとは、自分の会社の株を例えば20万円で買う権利を、会社から与えられるものです。
例えば5年後に自分の会社の株が100万円になっていれば、この権利を使って20万円で自社株を購入することが出来ます。
即座に株式市場でこの購入した株を売却すれば、100万円で売れますので、手元には80万円の利益が得られる、というものです。

こういう権利の売買の取引のことを一般にオプション取引といい金融派生商品(デリバティブ)の一つです。
この権利の発生もととなる資産は「株」でしたので、「ストックオプション」に対する「株」のことを原資産といいます。
また「20万円で買う権利」と言った場合、この20万円を株価が超えれば利益が得られ、20万円にならなければ権利を使っても意味が無いので権利を放棄する(権利を放棄するだけで損は無い)ことになりますので、この分岐となる価格のことを権利行使価格(ストライク)といいます。
ストックオプションは会社からただでもらえるものですが、一般にはオプションは市場で売買されています。

ではいくらで売買されているのでしょうか?
「株を20万円で買う権利」というオプション、今の株価が18万円くらいだったら、利益が出る可能性が高いので、このオプションは値段が高いです。もし今の株価がまだ2万円だったら、この株が20万円を超える可能性はなかなか難しいので、このオプションの値段はただ同然です。

このオプションの値段を決める式が、金融工学では有名なブラックショールズの式です。
ブラックさんとショールズさんは、株価(原資産価格)の変動率が標準ブラウン運動(ウィーナー過程)に従うとしてブラックショールズの式を導き出しました。普通の株式オプションは簡単な商品なので、オプションの価格は解析的に解くことが出来(注1)、その解がブラックショールズの式なのですが、オプションには更に複雑な商品があります。
スプレッドオプション、バイナリーオプション、ディファレンシャルオプション、バリアーオプション、バスケットオプション、デジタルオプション、クオント、クリケットなど、あるいは、権利行使の仕方でアメリカンオプション、バミューダンオプションなど
様々です。これらは複雑な商品ですので、価格式を解析的に解くことは出来ません。

そこで登場してくるのが、ファインマン−カッツの公式(注2)です。
この公式は、オプション価格を決めるにあたっての万能公式です。
仕組みはこうです。
原資産の価格がオプションの満期時にいくらになっていて、いくらの利益(ペイオフ)があるかをまず求めます。
そして、原資産の価格がいくらになるかの確率分布を次に求めて、ペイオフと確率分布から期待値を求めると言うものです。
確率分布はウィーナー過程に従うとして計算してもよいし、またはモンテカルロシミュレーションなどで、シミュレートした結果でもかまいません。
権利行使価格が20万円で株を原資産とするオプションを例にとってもう少しわかりやすく説明してみますと、今、例えば18万円の株あったとして、この株価がふらふらと上昇したり下降したりしながら酔っ払いの千鳥足で歩いてゆくと5年後にはいくらになっているかということを推測するわけです。
5年後に30万になっていれば10万の利益、25万になっていれば5万の利益、15万であれば利益なし・・・という具合です。
そして、30万円になる確率は1/10、25万になる確率は1/5、15万になる確率は1/7などとして、収益率の期待値を求めるとオプションの価格が求まると言う仕組みです。

ここに経済現象というマクロな現象と、量子力学というミクロな現象の間の関連を見ることが出来ます。
ファインマン−カッツの公式と言うのは、「雑感」の中でも申し上げましたとおり、量子力学の経路積分の概念から出てきた公式でした。そのファインマン−カッツの公式が実は経済社会の中で、ばりばりと使われているのです。
銀行の為替ディーラーや債券ディーラー、中長期オフバランスのディーラーなどは、毎日のように為替オプションや債券先物オプション、キャップ、フロアー、スワップションなどと言うオプション取引の価格に一喜一憂しているわけですが、彼らが気付く気付かずに関わらず、その価格の計算式の中には、ファインマンの経路積分の概念が入り込んでいるのです。

量子力学の経路積分で出てくる式と、オプションの価格付けで出てくる式とは一点だけ除いて全く同じ形をしています。
その一点とは、時間が虚数か実数かの違いなのです。

おっと、また仏教の話からわき道にそれてしまいました。

(注1)
フィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズは原資産の変動率がウィーナー過程に従い、それを原資産とするオプションの変動率もウィーナー過程に従うと仮定しました。
オプションのトレンドやボラティリティーは、一般に現資産価格の関数になっています。
原資産とオプションのウィーナー過程を伊藤のレンマを使って変換してあげると、有名なブラックショールズの偏微分方程式になります。
さらに変数変換をすると、熱伝導方程式の境界値問題に帰着できて、これを解くとブラックショールズの式が出てきます。

(注2)
「Feynman - Kacの公式」と書くため、経済学書では「フェインマン−カクの公式」と紹介しているものもあります。



2006/1/28 先物取引
金融話第二弾!!

前回はオプション取引のお話をしましたので、今回は先物取引のお話をしてみます。
原油先物、ゴム先物、小豆先物、債券先物、金利先物、日経225先物など様々な商品があります。

先物取引とは、例えば「将来のある時点に、現物をある価格で買うと言う約束をあらかじめしておく取引。」です。 
将来のその時点で、現物価格がそれより高くなっていれば、あらかじめ決めておいた価格で安く仕入れることが出来ます。これはお得です。
逆に、将来のその時点で、現物価格がそれより低い場合は、本当だったらもっと安く買えるのに、あらかじめ決めておいた高い価格で仕入れなければならないので、損になります。

この取引の相手は、「将来のある時点に、現物をある価格で売ると言う約束をあらかじめしておく取引。」と言うことになります。
将来のその時点で、現物価格がそれより安くなっていれば、あらかじめ決めておいた高い価格で現物を売ることが出来ます。これはお得です。
将来のその時点で、現物価格がそれより高い場合は、本当だったらもっと高く売れるのに、あらかじめ決めておいた価格で安売りしなければなりません。これは損です。

具体的な例で考えてみましょう。
今年は豊作になるだろうと思っている農家がいるとします。豊作になるとお米の価格が下がってしまうので、今年の秋にはお米を今よりも安く売らなければならないことになってしまいます。お米の値段が下がってしまうことを不安に思っている農家は、まだ高いいまのうちに米の先物を売っておきます(先物価格は、現物価格に近い値段で取引されています。)。もし本当に今年が豊作で秋にお米の価格が下がっても、あらかじめ決めておいた高い値段でお米を売ることが出来るからです。

一方で、今年は凶作になるだろうと思っている米問屋がいるとします。凶作になると米の価格が高騰してしまうので、今年の秋にはお米を今よりも高く買わなければならなくなってしまいます。お米の値段が上がってしまうことを不安に思っている米問屋は、まだ安いいまのうちに米の現物と近い値段で取引されている米の先物を買っておきます。もし本当に今年が凶作で秋にお米の値段が上がってしまっても、あらかじめ決めておいた安い値段でお米を買うことが出来るからです。

ここに、農家と米問屋の間で米の先物取引が成立します。つまり相場観が全く反対の者同士で先物取引は成立することになります。
今年実際に起こることはこのどちらかですので、どちらかの相場観がはずれ、はずれた方は損をします。

もし今年が豊作だったら、農家の相場観が当たり、思ったとおりに得をします。逆に米問屋は、思っていたのとは逆に、米の値段が下がった秋に、本当だったら安く買えるのに、あらかじめ年始に決めておいた高い値段でお米を買わなければならなくなり損をします。

逆に、もし今年が凶作だったら、米問屋の相場観が当たり、米問屋が得をします。農家は、思っていたのとは逆にお米の価格が秋に高騰し、本当だったら高騰した高い価格でお米を売ることが出来たのに、あらかじめ年始に決めておいた安い値段でお米を売らなければならなくなり損をします。

これが先物取引です。

なぜ先物取引が成立するのかをもい一度振り返ってみましょう。それには相場観が異なる二人の登場者が必要でした。
でもそれだけで、先物取引は成立するでしょうか。
もう一つ大事な要因があります。
それは人間の「将来に対する不安心理」です。
農家には、米の値段が秋には下がってしまいはしないかと言う「将来に対する不安」がありました。
米問屋には、米の値段が秋には上がってしまいやしないかと言う「将来に対する不安」がありました。
この将来に対する不安心理が先物取引を成立させる大きな要因となっているのです。

私の好きな言葉は、「プロフィール」にも書いている通り、「結果に執着しない行為。これもまた過ぎ去る。未来も過去も存在しない、存在するのは今のみ。」です。
存在しない過去を後悔する必要もないし、存在しない未来を危惧する必要もない。
もし世界中の人々がこのような考えだったら、先物取引という取引形態は発明されなかったでしょうね(笑)。

人間の将来に対する不安心理が作り出している虚構の世界という一面が、経済活動の中にはあるような気もします。



2006/1/29 特殊相対性理論と大日如来
光の波の先端でサーフィンをしている人に、宇宙はどのように見えるだろうか。時間はどのように流れるのだろうか。 
特殊相対性理論によれば、速さが速くなるほどローレンツ変換により空間は収縮し時間の間隔は間延びする。 
従って、光に乗っている人には、時間が流れなくなり、全てのものの距離がゼロになるので、あらゆるものが同時に見えることになる。太陽から出た光に乗っている人には、一億五千万キロ離れている地球を通過するのに全く時間がかからないのだ。 
光の速度になると全てのものの距離がゼロになるので、太陽から出発したのと同時に地球を見、火星を見、木星を見、・・・宇宙全体を同時に見ることになる。 
これは、光に乗っている人が、宇宙全体に同時に存在している、あるいは、宇宙全体と同時に接触していると言える。 
あるいは、光に乗っている人のところに、宇宙全体が存在していると解釈が出来る。 
「光に乗っている人が宇宙全体に同時に存在している」というと、これは真言密教の大日如来のイメージに近い。 
「光に乗っている人のところに、宇宙全体が存在している」というと、これは華厳経の毛穴の中の宇宙に近いイメージだ。 
大日如来を考えた先人は、特殊相対性理論を知っていたのか。 
華厳経を記した先人は、特殊相対性理論を知っていたのか。 
アインシュタインは、夢で光に乗っている自分を見た。光の速度で宇宙を見たらどう見えるのか。その夢がきっかけとなって、特殊相対性理論を思いついたのだ。アインシュタインはその時大日如来になっていたのか。 

光の速度では、時は流れず、全てのものが同時に距離ゼロでそこに存在している。 
速度が遅くなってくると、時が流れ始め、空間距離が発生してくる。時間が流れ始め、それとあれとが離れてくるわけだ。 
特殊相対性理論が正しければ、時間や空間が存在する理由は、「速度が遅いから」なのである。 



2006/2/5 どうして未来を見れないのか
私たちは、過去しか見ることが出来ません。
今見ている太陽は8分前の太陽です。私たちが「見る」ためには光が必要です。光は有限な速度(秒速30万キロ)ですので、夜空を見上げた時、遠い星ほど過去であるわけです。

では、どうして未来を見ることが出来ないのでしょうか。

それは、光の波には、遅延波と先進波があるからです。 
遅延波とは池の真ん中に石を投げ入れた時に周りに拡がってゆく波のイメージです。 
先進波とは、池の周囲で一斉に起こった波が池の中心に向かって収縮してゆく波です(!)。これは時間を反転して考えると、池の中心に石を投げ込んだ時に、過去(!)に向かって拡がってゆく波と考えることが出来ます。 
つまりこういうことです。 
池の中心に石を投げ込むと、周囲に向かって波が拡がってゆくのですが、普通我々が目にする未来の方向へ拡がってゆく波(遅延波)とは別に、過去の方向にも拡がってゆく波(先進波)が存在するのです。 

光の波には、このように過去から未来へ拡がってゆく波(遅延波)とは別に、未来から過去へ拡がってゆく波(先進波)も実は存在しているのです。 
ではなぜ、私たちは未来を見ることが出来ないのでしょうか。 
この先進波を捕らえることが出来れば、私たちは未来を見ることが出来るはずなのですが。 
禅問答のようですね(笑)。

次のような実験を考えて見ましょう。 
光源が、10光秒(光の速さで10秒かかる距離)だけ離れた球面状の壁に囲まれており、観測者が光源から1光秒だけ右に離れたところにいるとします。 
球体の真ん中に光源があり、そのちょっと右横に観測者がいるイメージです。 
t = 0に光源を出た遅延波は、左側の壁にt = 10に到達します。 
この光の波に揺すられた左の壁の中の電子は、先進波を出すことが出来ます。t = 10に左側の壁を出た先進波は、11秒時間を遡って、t = -1に観測者のところへ届きます。 
このとき観測者のところにはこの波とは別に、光源から直接右側に発せられた先進波も来ています。光源からちょうど1秒だけ時間を遡った(つまりt = -1の)光です。 
左側の壁から来た先進波と、光源から直接来た先進波は位相(波の山谷)が反対なので、打ち消しあってしまいます。 

一方、t = 0に光源を出た遅延波は、右側の壁にもt = 10に到達します。この光の波に揺すられた右の壁の中の電子は、やはり先進波を出すことが出来ます。t = 10に右側の壁を出た先進波は、9秒時間を遡って、t = 1に観測者のところに届きます。 
このとき観測者のところにはこの波とは別に、光源から直接右側に発せられた遅延波も来ています。光源からちょうど1秒だけ時間を経た(つまりt = 1の)光です。 
右側の壁から来た先進波と、光源から直接来た遅延波は位相がそろっていますので、波が強めあいます。 

このような具合で、観測者のところには、t = -1には波が観測されず(打ち消しあってしまったので)、t = 1にのみ波が観測されます(強めあいました)。 

このようなわけで、未来から来る光は見ることが出来ず、過去から来る波しか見れません。 

このように、私たちの目の前に現れている現象としては、「過去からの光しか見れない」ということに、結果的にはなっているわけですが、この現象の背後には、時間を行ったり来たりしている光の存在があるようです。 

これは、ホイーラー・ファインマンの吸収理論として知られています。




2006/2/5 群速度と位相速度
いろいろな波長の波をうまく足し合わせると、ある場所の波だけが強め合って、他の場所の波は消えてしまうという現象が起きます。穏やかな水面のある場所にだけ、ぽこっと小山のような水の盛り上がりができ、その小山が水面上を右から左へ動いているような状況です。波の塊です。 

物とは、このような波の塊である、という考え方もあります。この波の塊のことを波束といいます。波束は、それを構成しているいろいろな波長の波の重ねあわせで作られます。上手く重ね合わせると波束(水の小山)ができるのです。 
波束に対して、それを構成しているこの波のことを、随伴波と言ったりもします。 

波束には、群速度と位相速度という二つの速度があります。 
群速度とは、波束が全体的に進んでゆくときの速さです。先ほどの喩えでは、水の小山が右から左へ進んでゆく速度です。これは物が動いている速さそのものです。 

一方、位相速度とは、波束を構成している随伴波の速さです。随伴波の山や谷が進んでゆく速さです。 

さて面白いのは、この二つの速さの特徴です。 
相対論的な粒子は、「諸行無常と相対論的粒子場」などでお話しましたように、Klein-Gordon方程式という波動方程式に従いますので、相対論的な粒子(物)では、位相速度=光速度の2乗÷群速度、という関係があります。 
群速度というのは、粒子(物)の速度でしたから、決して光速度を超えることはできません。 
すると何が起こるでしょうか? 
そうです、位相速度は必ず光速度より「速く」なるのです。物の速度つまり群速度が遅ければ遅いほど、位相速度は光速度をはるかに超えたスピードになります。 
光の速度をはるかに超えた、遠距離を瞬時に伝わる随伴波の存在があってこそ、遅いスピードの「物」の存在が可能になるのです。 

この遅いスピードの物を、もし「私たち」と置き換えてみることができたとき、この遠距離を瞬時に伝わる波とは、いったい何に相当するのでしょうか。



2006/2/12 なぜ時間は過去から未来へしか流れないのか
あなたは何故時間が過去から未来へしか流れないのかということの理由を考えたことがありますか?
あなたは何故量子論では波動関数の絶対値の二乗をとるのかということの理由を考えたことがありますか?
一見、関連のなさそうなこの二つの質問ですが、実は大いに関連があるのです。

過去しか見れないことと、過去から未来へしか時が流れないこととは分けて考える必要があります。過去しか見れない理由は前回お話しました。しかしここまで書き進めて来ますと、何故時間は過去から未来へしか流れないのかという答えもすぐそこにあります。
また、量子力学では何故波動関数の絶対値の二乗をとらなければならないのでしょうか?。この理由も分かって来ます。これも時間の流れる方向と大いに関係があります。波動関数の絶対値の二乗とは、波動関数の複素共役を元の波動関数にかけるということです。複素共役をとる意味とは?、そして元の波動関数にかけ合わせる意味とは?。その意味は実はこのホームページの中に既に書いています。「物質と反物質の対消滅と対生成」や雑感の中の「2004/12/4 この世は複素数の波で出来ている 」あたりを探してみて下さい。

シュレディンガー方程式には、波動関数を確率振幅と適合させるために、時間に対して無理やり一階の偏微分方程式にした経緯があります。ディラック方程式も然りです。これらの方程式からは、時間が過去から未来へ流れることを説明することは出来ません。ただ波動関数の絶対値の二乗をとることで、時間に関する重要な効果が取り込まれ、理論としては現在辻褄があっているのです。物理学者達が気付いているのかいないのかはわかりませんが、表向きには常識に合わないということで捨ててしまったものを、裏側からこっそりと取り込んでいるという行為が行われているのです。

実を言えば物質波の方程式は歴史上、これらの方程式とは別の形で発見されました。その方程式は現在あまり見向きがされなくなっていますが、いわゆる時間の矢を説明する為にはこの方程式が復活してきます。今回は非常に歯切れの悪い書き方になっていますが、全ての答えは既にこのホームページの中に書いてありますので探してみて下さい。

時間の矢についても、波動関数の絶対値の二乗に関してもキーワードは未来からやってきて現在に影響を与える「先進波」です。

そして、現象が過去から未来の一方向にしか進まないのは、顕現した結果に過ぎません。
この背後には、過去から未来に進む物質波と、未来から過去へ進む(!)物質波の干渉という仕組みが存在しています。



2006/4/2 存在とは何か?
経路積分は自然を最もよく正確に表しているモデルの一つであることに間違いないと思われます。 
そもそも、本質を言葉や数式で表現した時点で、近似やモデル化がそこには介在します。 
日本語や英語といった言葉でさえ、本質を表現するためのモデルですね。宗教や哲学も"モデル"なのでしょう。 
そういう意味では経路積分は哲学の領域に達しているような気がします。 
経路積分で表される核(プロパゲーター)をテーラー展開すれば、エネルギーが量子化され固有関数が展開係数として出てくること、 
経路積分で表わされる核について、時間を虚数にすると統計力学になってしまうこと、 
最小作用の原理で古典経路が説明できること、 
自由エネルギーは、経路積分の核を全空間について積分したものと等しいこと、 
場の量子論の経路積分では、核はあらゆる二時空点間の源泉の相互作用として記述できることなど、経路積分の考え方は、宇宙のより基本的な仕組みの中に組み込まれている考え方のような気がしてなりません。 
ファインマンは神秘主義全体に強く反対していましたし、「信じられるのは科学によるものだけだ」といっているように、哲学との関連とか、宗教との関連を語ることを、ファインマン自身が嫌っていたは事実ですが、私は少し妄想を膨らませてみたくなります。 

最小作用の原理はファインマンよりずっと以前からありましたが、ファインマンの最小作用の原理の面白いところは、作用を指数関数の肩に乗せることによって、作用を波の位相にしてしまったことだと思います。(もっとも、この発想はシュレディンがーやディラックにもあり、ファインマンがパクったと言えばパクったわけですが。)
これによって、作用が停留値をとるところでは、波が強め合って経路が残り、作用が停留値をとらないところでは、位相が大きく振動するので、波が打ち消しあい経路が消えてしまうと言うわけですね。
作用が停留値をとらない経路も存在していないわけではなく、ただ干渉の結果、消えてしまっただけなのです。ここがファインマン以前の最小作用の原理と違うところで面白いところだと思っています。
作用が停留値をとらないために通常は消えてしまう経路も、存在としては「ある」わけです。その証拠に、うまく細工することによって、その経路を現象として顕現させることができます。回折格子で入射角と反射角が異なる光を見ることができるのはその一例です。
作用を指数関数の肩に乗せたことにより、新たな可能性の扉が開きました。
この式で、時間を虚数にすると先程申し上げたように統計力学の式に帰着しました。
そして、その結果、質量とは存在確率分布関数の標準偏差に関連することがわかりました。
質量が小さいと存在確率分布関数の裾野が広がり(標準偏差大)、質量が大きいと存在確率分布関数の山がシャープに切り立ってきます(標準偏差小)。
質量が大きい私は存在確率がシャープなため、JRの改札口を2つ同時に通り抜けられませんが、軽い電子は存在確率が広がっているので、二重スリットを同時に通り抜けられるわけです。
なぜか私は経路積分を考えていると、とても楽しい気持ちになり癒されます。



2006/4/23 パラレルワールド
パラレルワールド−11次元の宇宙から超空間へ−
ミチオ・カク著/NHK出版 P198より抜粋

−−経路積分−−

ホイーラーが戦後に教えた大勢の学生のひとりに、リチャードファインマンがいる。ファインマンは、量子論の複雑さを整理する、最も単純でありながら最も深遠とも思える手法を思いついた(このアイディアから導かれたひとつの結果で、彼は1965年にノーベル賞を受賞することになる)。あなたが部屋を横切りたいとしよう。ニュートンの考えによれば、あなたはA地点からB地点まで、単純に古典経路という最短の経路をとる。だがファインマンによると、まずあなたはAとBを結ぶあらゆる経路を考えなければならない。つまり、火星や木星の近くの恒星まで行く経路のほか、時間をさかのぼってビッグバンまで戻る経路さえ考える必要があるのだ。どんなに非常識で奇想天外な経路でも、考慮に入れなければならない。ここでファインマンは、それぞれの経路に数を割り当てることにし、その数を算出する厳密なルールを与えた。すると不思議なことに、あらゆる可能な経路についてこの数を足し合わせる(積分する)と、標準的な量子力学で与えられる、A地点からB地点まで歩くという事象全体の確率が明らかになった。これはなんとも驚くべき事実だった。

ファインマンは、ニュートンの運動法則に反する奇想天外な経路について、それぞれに割り当てた数を足し合わせると、たいてい打ち消しあって総和はわずかになるということに気づいた。そしてこれが量子ゆらぎのもとだった−つまり、量子ゆらぎは総和が非常に小さい経路を意味していたのである。一方、彼は、常識的なニュートン理論の経路が、打ち消されずに大きな総和になる経路−確率が最大となる経路−であることも発見した。したがって、物理的な世界に対するわれわれの常識的な観念は、無数に存在する状態のなかで最も可能性の大きな状態に相当する。しかし、われわれはあらゆる可能な状態と共存しており、そのなかには、恐竜の時代や、近隣の超新星や、宇宙の果てにまで連れて行くようなものもあるのだ(そうした突飛な経路は、常識的なニュートン理論の経路とわずかしかずれていなくても、幸いなことに確率が非常に低い)。

結局、どんなに奇妙であれ、あなたが部屋を横切るたびに、あなたの体は事前にあらゆる可能な経路を−遠くのクエーサーやビッグバンに到達する経路までも−「嗅ぎまわり」、それらを足し合わせているのである。ファインマンは、関数積分という強力な数学的手段を使って、ニュートン理論の経路が最も可能性の高い経路にすぎず、唯一の経路ではないことを明らかにした。彼は、数学の巧みなツールによって、この奇想天外な見方が通常の量子力学とまったく同じことを意味していると証明したのだ(そのうえファインマンは、このアプローチを利用してシュレディンガーの波動方程式まで導き出してみせた)。

ファインマンの「経路積分」がいかに素晴らしいものであるかは、今日、大統一理論やインフレーション理論、さらにはひも理論を定式化する際にも、彼の「経路積分」の考え方を利用していることからもわかる。この手法はいまや世界じゅうの大学院で教えられており、量子論を定式化するための、圧倒的に有力かつ便利な手だてとなっている。
(私自身、ファインマンの経路積分の手法は毎日研究で使っている。私が記すどの方程式も、この経路積分によって立てられているのだ。大学院で初めてファインマンの考え方を学んだが、それは世界に対する私のイメージを一新した。頭では、量子論や一般相対性理論の抽象的な数学を理解していた。しかし、自分がある意味で、火星や遠方の星々まで行く経路も嗅ぎまわっているという考えは、私の世界観をがらりと変えた。突然、自分が量子論的な世界に住んでいるという、奇妙で新鮮なイメージを抱いたのである。そして、量子論が、相対性理論の驚くべき結論よりはるかに異質だという事実に気づきだした。)


ミチオ・カク
ニューヨーク市立大学理論物理学教授。超ひも理論の権威であり、現代理論物理学の第一人者。ハーバード大卒。カリフォルニア大学バークレー校で博士号取得。
著書には、「超弦理論とM理論」(シュプリンガー)など多数。



2006/5/3 二重スリットの実験
二重スリットの実験は、量子論の醍醐味ですね。
ここに、この世界の本質が凝縮されています。

一個の電子や光子でも干渉するのは、
一個の量子が、スリットAを通る経路とスリットBを通る経路を同時に辿るからです。
スリットを取り除いてしまうと、一個の量子はあらゆる経路を同時に辿ります!!。これが経路積分です。

二重スリットの実験は、経路積分の二経路版なのです。
もう少し詳しく言えば、スリットAを通る経路に付随する波exp(iSa/h)とスリットBを通る経路に付随する波exp(iSb/h)が干渉しているのです。
ここでSaはスリットAを通る経路の作用、SbはスリットBを通る経路の作用です。この波の等位相面に垂直な方向が、量子が辿る経路です。
波exp(iS/h)は、ホイヘンスの原理に従っています。
池の中心に石を投げ込んだとき、池の中心から円形の波が広がってゆきますが、時間を止めてある時点の波の様子を見てみると次のような波が見えます。
大きな円が一つあります。その円の円周に、たくさんの小さな半円が花びらのようにたくさんついています。
時間をちょっと進めてみると、たくさんの花びらの先っぽをつないだ円になります。さっきの大きな円よりちょっとだけ半径が大きい円です。
ホイヘンスの原理で波が伝わってゆく様子はこんな感じです。こんな感じで円形の波が広がってゆきます。
この波がスリットに到着すると、スリットを抜けた花びらだけがスリットの向こう側に広がってゆきます。
二重スリットでは、スリットAを抜けた花びらから広がっていった波と、スリットBを抜けた花びらから広がっていった波が、最終的にスクリーン上で干渉します。

片方のスリットのところで観測行為をしてしまうと、そのスリットから本来出てゆくはずの花びらが消えてしまいます。従いまして観測してしまうとスクリーン上には干渉縞が現れません。

この世を波と考えるといろいろなことが説明できます。

経路積分は面白いですよ。

量子はあらゆる経路を同時に辿るのですから、私達が家から駅に歩いてゆくときも、実は私達はある意味で、木星にも火星にも行っているわけです!!。
 



2006/5/15 隠れた変数の理論から唯識論へ
経路積分では波動関数ψは
ψ = exp(iS/h)
と書かれるわけですが、これでは複素数の「角度の部分」しか使っていない(複素数は一般にRexp(iθ)と書けるわけですが)と言う訳で、「長さの部分」も導入したらどうかというのが、デビッドボームのそもそもの発想でした。所謂、隠れた変数の理論であります。
そこで、波動関数ψを
ψ = Rexp(iS/h)
と書くことによって、Rという変数を導入しました。
これをシュレディンガー方程式
ih(dψ/dt) = (-h^2/2m)△ψ + Vψ
に代入してみますと、実数部と虚数部が共にゼロにならなければならないので、以下の2本の方程式に変換されます。
dR/dt + (1/m)▽R▽S + (1/2m)R△S = 0 ・・・@
dS/dt - (h^2/2m)(△R/R) + (1/2m)(▽S)^2 + V = 0 ・・・A

Aの式で、Sは作用ですので、dS/dtはエネルギーです。
また▽Sは運動量Pです。よってAは、
エネルギー = p^2/2m + V - (h^2/2m)(△R/R)
となりまして、
通常の運動エネルギー(p^2/2m) + ポテンシャルエネルギー(V)
とに加えまして、余分な項
- (h^2/2m)(△R/R)
が現れました。
この
U = - (h^2/2m)(△R/R)
を量子ポテンシャルと、ボームは名づけました。
そして、このRの導入は、のちにネルソンの確率力学につながりました。
第四の量子化の方法です。
ちなみに経路積分は第三で、シュレディンガーとハイゼンベルグが一と二です。

ネルソンの確率力学では、量子はウィーナーの確率過程に従うブラウン運動として記述されます。
つまりボームが言っていた、
「ψ場のゆらぎは、量子力学が対象としているレベルよりもっと下位のレベルに起因するものである。これは、小さな液滴のプラウン運動が原子レベルに起因するのとちょうど同じである。そしてまたニュートンの運動法則が液滴の平均的な振舞いを規定しているように、シュレディンガーの波動方程式がψ場の平均的な振舞いを規定しているのである。」(全体性と内蔵秩序 p150)の言及をネルソンが裏付ける形となりました。

ネルソンの確率力学では、量子の位置の変化dxが、
dx = vdt + √(h/m)dW(t) ・・・B
という確率過程に従います。dW(t)が標準ブラウン運動を表しています。

つまり、ニュートン力学は、B式で、右辺第二項の標準ブラウン運動項を無視した粗雑な近似だったわけです。右辺第二項を無視したとき、速度vは、
v = dx/dt
となって、ニュートン力学に戻るのです。

確率過程では、√(h/m)の部分を標準偏差またはボラティリティーと呼びまして、量子の軌道がどのくらい拡散するかを表すものです。

この拡散の度合いが、質量に反比例してますので、我々のような質量の大きいものは、それほど拡散できません。逆に電子のように軽い場合は、標準偏差が大きくなって拡散しやすくなります。

そんなわけで、電子は二つのスリットを同時に通れますが、私たちはJRの改札を二つ同時に通れないのです。

ちなみに、このブラウン運動(ウィーナー過程)は、ネルソンの確率力学をわざわざ持ち出さなくとも、実は出て来るのです。

それには、経路積分で、時間を虚数にすればよいのです。
経路積分で時間を虚数にすると、ウィーナー積分になってしまいます。

つまり、経路積分で時間を虚数にしてみると、統計力学になってしまうのです。

コペンハーゲン解釈では、意識が波動関数を収縮させるといいます。

√(h/m)が、量子の存在確率分布の標準偏差という話を先ほどしました。
波動関数が収縮すると言うことは、この標準偏差が極端に小さくなることを意味します。
波動関数が収縮する過程で標準偏差が小さくなってゆきますが、それはとりもなおさず質量mが大きくなってゆくことを意味します。

意識が波動関数を収縮させ、そこに質量を生成する。

唯識論の物理的説明は案外こんな感じなのかもしれません。 



2006/5/15 地上より上空の方が時間は速く流れる!?
何でリンゴは落ちるのでしょうか?
と聞かれた時に、
「重力があるからです」
と答える方も居りましょう。
「時空が曲がっているからです」
と答える方は、ちょっとした物理通です。
「上空では時間が速く流れているからです」
と答えた方は、物理好きのひねくれものです。
そうです、上空では時間が速く流れているからリンゴは落ちるのです。
上空の時間が、地上の時間と同じ速さで流れていたらリンゴは上空にとどまってしまうのです!?。
上空の時間が地上より速く流れているので、そこに加速度が生じます。
これを重力(重力加速度)と名付けているのです。
時間軸を左から右にとりましょう。そして高さを縦軸にとってみます。
上空と地上の時間の流れが同じであれば、等時刻線は、縄のれんのように、等間隔で上から下へ垂れ下がります。物体の軌道は等時刻線に垂直な方向ですので、このとき、上空で放たれたリンゴは、高さを変えずに時間軸をただ左から右に進むだけです。つまり上空にとどまってしまうのです。
しかし実際は、上空の方が地上より時間の流れが速いので、縄のれん(等時刻線)は、下の方を左へ寄せたような形になります(へいらっしゃい!!)。つまり、上のほうは間隔が疎なのですが、下になるに従って間隔が密になるわけです。やはり、物体の軌道は等時刻線に垂直な方向ですので、このとき、上空で放たれたリンゴは、時間と共に(左から右へ行くに従って)、上から下に曲がった軌道を描くことになります。つまりこれが加速度運動の正体です。
この等時刻線は、時空を作用に見たてた時の等作用線に他なりません。

地球中心の年齢は、地表よりも1日か2日は若いのだそうです。



2006/5/28 宇宙観の変容から意識の変容へ
どうもこの世は、声の大きい人がいった言葉が大手を振ってまかり通るようです。 
そして一度まかり通ってしまい常識となってしまったものは、方向を転換するのが難しくなり、パラダイムシフトさせるのは非常に困難です。 
タイタニックのような巨船が舵を切っても、その効果がすぐには現れず、流氷を避けきれなかったのに似ています。 
これが「宇宙観」などといった話になると、パラダイムシフトするまでに百年から数百年の年月が必要なようです。 
ニュートン力学的な宇宙観は二百年以上続きました。あるいは今でもニュートン力学的な宇宙観で生きている方々も多いですので三百年以上続いているといってもいいかもしれません。 
物理の世界では1900年以降量子論がニュートン力学に取って代わりましたが、その宇宙観は決して一般に普及しているものではありません。そしてその量子論でも素粒子論などに代表されるように、要素還元主義的な宇宙観は依然として根強いようです。 

ところが、現代物理を紐解いてみますと、素粒子物理と言ってはいるものの、その実体は、波動論になっているのです。 

素粒子の時空的な動きは、波動の拡がりとして記述されます。 

この宇宙のバラエティーに富んだ表情は、決して粒子性からは出てこず、波としての性質を前提にして初めて説明が可能になります。 

もしこの宇宙を創った神がいるとしたら、その神が得意としていたのは、数学のフーリエ変換だったのだろうと思うほど、この宇宙は時間空間の世界とエネルギー運動量の世界(振動の世界)のフーリエ変換の構造が随所に現れています。 

つまりこの世は、色々な周波数の波が混ざっている構造になっているわけです。 

宇宙観の変容が、意識の変容につながり、苦しみを取り除く一つの方法であることは、古くから般若心経などで繰り返し言われています。 

私は猜疑心が強い人間なので、精神世界の本などを読んでも、「何を根拠にそんなこと言ってるんだい」くらいの冷めた捉え方しか出来ませんでした。 
ところが、現代物理をいろいろ考えておりました中で、あらゆる事が相互依存で成り立っていることや、その相互依存のなかから最も現れやすいものとして現象が現れていることなどを知り、とっても楽な気持ちになりました。 

私にとって、物理の数式には、暴力的な説得力がありました。 

物理の先生たちは、ご自分の研究成果のことで頭がいっぱいで、物理の法則を知識としては知っているものの、それを自分の人生観と結びつけて考えている方は少ないのではないでしょうか。 

ただ、少し前の日記「パラレルワールド」で書きましたが、超弦理論のミチオカク先生などは、物理の法則を知ることによって、ご自分の意識がかなり変容されたようです。 
不確定性原理のハイゼンベルグも、「現代物理学ではもはや世界は物体ではなく関連であり、それが現象のなかで最も重要な要素である。・・・このように、世界は複雑な出来事の織物という姿を呈する。」と言っています。 
そして、アインシュタインさえも、「それゆえ物質は、場がきわめて緊密な空間の領域によって構成されているものとみることができよう。・・・新しい物理学では、場も物質もというわけにはいかない。場が唯一のリアリティーなのだ。」と、物質が、根源的な実在の一時的な姿にすぎないとみなす考えに至っています。 
また、量子論のシュレディンガー方程式で有名なシュレディンガーなどは、その方程式を発見する前に、ウパニシャッドやヴェーダーンタなどに傾倒しており、西洋人としてはめずらしい不二の思想を持っていたようです。 

1600年代のニュートン力学によって、要素還元主義=もの中心的な世界観が構築されてしまい、物への執着など我々は苦しまされていますが(私たちは言ってみれば「江戸時代の世界観」に悩まされているわけですが(笑))、1950年代以降の現代物理は、「常識的ではない」ことを言い始めておりまして、かなり神秘の世界に近づいてきているという印象があります。 

ただし、この現代物理の宇宙観が一般に定着して世界観がパラダイムシフトするのにはまだまだ何百年もかかる気も同時にいたします。タイタニックが舵をきってもなかなか船首は回転し始めないのと同じように。



2006/6/25 あなたは物ではありません
あなたは自分を「物」であると思っていませんか?より根源的な「物」である電子や原子核といった物から組み立てられた「物」であると。
これは大きな誤解です。あなたは「物」ではありません。あなたは「出来事」なのです。つまりあなたは「物」ではなく「事」なのです。
私たちは小さい頃から、電子や原子核などというものを、教育を通してイメージさせられてきましたが、本当はこのような「物」が存在しているのではないのです。あるのは、場の変動という「出来事」だけなのです。場の中の波の伝播という「出来事」あるいは「過程」といってもいいかもしれません。あるのはこの「過程」だけなのです。
「素粒子」が集まって、私たちという「物」ができているという考え方は間違っているのです。むしろ、「素過程」という「基本的な出来事」が連鎖しあって、私たちという「出来事」が現象しているのです。この「素過程」には
@電磁場の場の伝播
AKlein-Gordon場の場の伝播
BDirac場の場の伝播
などがあります。これらの場の伝播という「素過程」の連鎖が私たちなのです。
電磁場には光子を、Klein-Gordon場には中間子などを、Dirac場には電子や陽子や中性子などを粒子のモデルとして当てはめて考えますが、三次元空間と一次元時間のなかで、これらの「素過程」は球状のボールが飛んでゆくというイメージでは決してありません。これらの「素過程」は、池に広がる波紋のイメージなのです。つまり、私たちは池に広がる波紋の連鎖であるということになります。池に広がる波紋という「出来事」が縦横無尽に重ね合わさって私たちは現れています。
明治時代に「Physics」という言葉が外来してきた時に、それを「物理」=「もののことわり」と訳したのは仕方がないかもしれません。
その頃の「Physics」はまさにニュートン力学的世界観=「物」中心の世界観が主流を占めていましたので。
しかし、今「Physics」をもう一度、訳すとしたら「事理」=「ことのことわり」と訳すべきだと思います。
思い返してみれば、日本には古来よりすばらしい言葉がありました。
「理事無碍」と「事事無碍」という言葉です。これらはまさに華厳経の中で「理事無碍法界」、「事事無碍法界」などという言葉で使われていました。「事」が融通無碍に溶け合うことによってこの世ができている、、、「物」より「事」にスポットライトを当てたあたりは、さすが華厳経といったところでしょうか。
丸善の「素粒子物理学−ファインマン・レクチャー」という本がありますが、原題は「The Theory of Fundamental Processes」なのです。ファインマンは「素過程の理論」という題名で本を書いているにもかかわらず、西洋的要素還元主義に洗脳されている日本人の訳者は「素粒子」と訳してしまいました。明治以降の西洋かぶれを改心し、もう一度、「物」よりも「事」にスポットライトを当てるべき時がやってきました。
もう一度言います。私たちは「物」ではなく、「出来事」なのです。



2006/7/2 私たちは本当に繋がっているのか?
スピリチュアルな方々は、「繋がっている」という言葉がお好きなようです。「私たちは繋がっているのだ」とよくおっしゃいます。 
私たちは本当に何かに繋がっているのでしょうか? 
繋がっているのか繋がっていないのかを調べる方法はあるのでしょうか。そしてそれが証明できれば、彼ら彼女らが言っていることが正しいのか、本か何かのただの受け売りなのかがはっきりします。 
繋がっているのか繋がっていないのかを調べる方法は案外簡単なのです。それはそれを回転させてみればいいのです。 
一回転(360度回転)させてみてそれが元に戻れば、それは何物にも繋がっていません。一回転させてみても元に戻らず、ニ回転(720度回転)させてみて初めて元に戻る時、それは何かに繋がっています。 
寝返りを打ってみたとき、ゴロリと一回転(360度回転)すると元に戻ります。観覧車なども一回転すると元に戻ります。 
レコードやCDも一回転すると元に戻ります。 
私たちの身の回りのものは、ほとんどが一回転すると元に戻る構造になっています。 

ニ回転(720度回転)すると元に戻る!?そんなものはあるのでしょうか? 
それは意外なところにあります。 
私たちの腕です。 
手のひらにお盆を載せ、その上にワイングラスを載せて、ウェーターのように高く手を掲げてみてください。そのお盆とワイングラスを落とさないように、手のひらを上に向けたまま、手のひらを反時計回りにゆっくりと回してみてください。 
180度くらい回してみると苦しくなってきて、そのまま回し続けると、ひじが前のほうに突き出してきて、手のひらは下がってきて後方へねじれて突き出た形になります(フィリピンの民族舞踊のような格好になります)。これで手のひらは一回転しましたが、とても苦しい格好となり、到底もとのウェーターの様な格好には戻っていません。それでも頑張ってさらに手のひらを上に向けたまま反時計回りに回転させ続けますと、手のひらは上に上がってきて、最後には腕のねじれが解け、なんともとのウェーターの格好に戻ります。ここまでで、手のひらはニ回転(720度)、回りました。 
ウェーターからフィリピンの民族舞踊のような動きこそ、「スピノール」と呼ばれる数学的構造を表しておりまして、ニ回転すると元に戻る、つまり何かと繋がっていることを証明する構造なのです。 
ご存知のとおり、腕は胴体に繋がっていますので、一回転しただけでは元に戻らず、ニ回転させてみて初めて元に戻るわけです。 
さて、私たちは、電子や陽子、中性子というものから出来ていると学校では教わりました。そしてこれらはDiracの場の方程式にしたがっていますが、これらは一回転すると元に戻るのでしょうか、それともニ回転しないと元に戻らないのでしょうか? 
答えは後者で、これらはスピンが1/2の「スピノール」なのです。つまりこれらは、一回転させても元に戻らず、胴体に繋がっている腕のようにニ回転させてやらないと元に戻らないという数学的構造を持っているのです。 

私たちはどうも根底のところで何かに繋がっているようです。 



2006/7/9 EPRパラドックスと量子交流解釈
***2つに分かれた粒子のスピンは逆方向ですが、どんなに離れていても一方のスピンの向きが変わるともう一方も瞬時に変化する。この変化は光より速く伝わる。***

これは、所謂EPR(アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン)のパラドックスですが、このパラドックスは、John.G.Cramerの量子交流解釈で説明できるかもしれません。 
http://mist.npl.washington.edu/npl/int_rep/tiqm/TI_toc.html 
この現象は、一方のスピンの観測結果が、瞬時に他方に伝わるように見えますが、見方を変えると、一方のスピンの観測という「結果」が、2つに分かれる前の「原因」に影響を与えた。とも読めるのです。つまりこういうことです。 
粒子が2つに分かれる。分かれた粒子は、空間を反対方向にそれぞれ飛び去って行く。片方のスピンが観測される。観測されたという結果が、「時間を遡って」2つに分かれる前の粒子に伝わる。時間を行って帰ってきて、初めて一つの過程が完了するという未来と過去の交流解釈です。 

***未来に片方の粒子が上向きのスピンで観測されたという結果を踏まえた上で、粒子が2つに分かれるということです。*** 

2つに分かれようとしている粒子のところに、片方の粒子が未来で上向きのスピンで観測されたという結果が、時間を遡って戻ってきているわけです。 

未来から過去に戻ってくる波が「先進波」なのですが、 
池の真ん中に石を投げ込むと、例えば5秒かかって、池の縁に波が到達します。縁で反射した先進波は、時間を5秒遡って中心に戻ってきます。トータル0秒です。 
つまり池の中心では、石が投げ込まれた瞬間、投げ込まれた石で出来た波と、5秒先の未来から反射してきた波の、両方の影響を同時に受けることになるわけです。 
これが先進波(時間を遡る波)の効果なのです。 
つまり、未来の結果が、瞬時に原因に影響を及ぼしているのです。 

この未来と過去との「交流」によって、2つに分かれた粒子は常に相手のことを「知っている」と言うわけです。 



2006/7/9 先進波と反物質
「ダビンチコード」がブレイクしましたが、ダンブラウンの前作「天使と悪魔」には「反物質」が出てきます。 
反物質と物質が衝突すると光を出して消滅しますが、反物質とは、「時間を未来から過去へ遡る物質」という解釈もできます。量子電気力学では、この反物質の概念があらゆるところに出てきます。そして、この量子電気力学(Quantum Electro Dynamics、略してQED)は、人類が手に入れた最も精緻な理論の一つで、10のマイナス20乗の精度で実験結果を再現する理論です。 
そして、先進波とは実はこの反物質を表現するものなのです。 

過去から来た物質と過去から来た反物質が衝突するとそれぞれは消滅して、光が発生しますが(これが天使と悪魔でサンピエトロ上空で起こったこと)、 
これは、過去から来た物質が、光を放出して、その物質が「過去に遡る」ということと物理的には同等です。 
時間の因果律を守ろうとすると、反物質が存在する必要がありますし、反物質を導入しないと、因果律が崩れてくるのです。 
物理学者のファインマンは1941年に書いた論文の中で、 
「著者らはすべての物理的現象は微視的に可逆であり、それゆえ一見不可逆な現象はただ巨視的に不可逆であるにすぎないと信じる。」といっています。 
反物質とは、まさに「時間を遡る物質」なのです。 
そして、これが先進波です。 



2006/7/9 宇宙の表(おもて)面と裏面
「波であり粒子である」まさにこれが、量子論の不思議でもあり醍醐味ですね。 
私たちの宇宙には実は表(おもて)面と裏面があります。 
表面は、ご存知の通り、空間三次元と時間一次元の四次元時空です。 
裏面!?、それって一体何?頭おかしいんじゃないの! 
裏面は、運動量三次元とエネルギー一次元のやはり四次元空間です。 
そして、この表面が波動の世界で、裏面が粒子の世界です。 
表面では、池に広がる波紋の世界が繰り広げられているのと同時に、裏面にひっくり返してみるとビリヤードの玉突きの世界が繰り広げられているわけです。 
この表面と裏面とは数学的にはフーリエ変換でつながっています。 
空間と運動量が対応し、時間とエネルギーがやはり対応します。 
量子論で波動性と粒子性が現れるのは、実はこのようなからくりがこの宇宙にはあるからなのです。 
表面にスポットライトを当ててみると波動性が観測でき、裏面にスポットライトを当てると、粒子性が観測できます。 
この表面と裏面の関係は面白く、表面をシャープにしようとすると裏面がぼけてきて、逆に裏面をシャープにしようとしますと、表面がぼけてきます。 
空間的位置と運動量を同時に精密に測ることができないとか、時間とエネルギーを同時に精密に測ることができないという「不確定性原理」はまさに、このフーリエ変換の性質なのです。 

時空間における光の伝播は、池の波紋です。 
中心(光源)から光速で球面状に拡がってゆく波です。 
この波の特徴は、撹乱が尾を引かないことです。数学的にはデルタ関数(パルス状の波)です。 
この波をフーリエ変換すると、エネルギーの概念が出てきます。 
光の粒子性とは、ゴルフボールが飛んでいるイメージではなく(上記のように光は時空間では波動として伝播しますので)、ただエネルギーを塊としてやり取りする意味での粒子性なのです。 
こんな事を想像していただければ良いと思います。 
バイオリンは、基準振動、2倍振動、3倍振動・・・というように、ある決められた振動数(あるいはある決められた波長)の振動しかできません。例えば3倍振動から、2倍振動に落ちるとき、塊として1倍振動分のエネルギーを放出します。また基準振動から、3倍振動にあがる時、2倍振動分のエネルギーを吸収します。 
0.3倍振動分のエネルギーや、0.7倍振動分のエネルギー等という半端なエネルギーのやり取りはできず、n倍振動分という整数でのみのやり取りしかできません。 
こういった意味での粒子性なのです。 

そして、電子や陽子、中性子や中間子も仕組みとしては、この光の概念とほぼ同じなのです(波動方程式の形がちょっと違うだけ)。つまり私たちも、時空間では波として伝播している!?のでしょうか? 

宇宙の表面は波動で、裏面は粒子と言ったのは、実はこんな意味なのです。 



2006/7/29 何が問題なのか
●私たちは、電子や原子核から出来ている。 
●原子核の周りを電子は回っている。 
●原子核は陽子と中性子から出来ている。 
●物をこまかく分けてゆくと素粒子になる。 
●全体は部分から構成されている。 
●時間は過去から未来へ流れている。 
●未来から来る信号はない。 
●時間の流れは一定である。 
●過去は変えられない。 
●見ていないときにも月は厳然として夜空に存在している。 
●あなたはあなたであり、私は私である。 
●ピッチャーの投げたボールは放物線を描いてキャッチャーのミットに収まる。 
●あなたはJRの改札の一つだけを通過している。 
●光の速度を超える情報の伝達はないので情報が一瞬で伝わることはない。 
●記憶とは過去の出来事に関しての事である。 
●記憶は脳みその中にある。 
●私たちが存在している空間という舞台は、碁盤の目のように整然としている。 
●地球は太陽の引力を受けて、太陽の周りを回っている。 
●原因があって結果がある。 

これらの一部、あるいは全てはうそであると思っています。

●私たちは、電子や原子核から出来ている。 
●原子核の周りを電子は回っている。 
●原子核は陽子と中性子から出来ている。 
●物をこまかく分けてゆくと素粒子になる。 
●全体は部分から構成されている。 
○以上は、「続、雑感」の、「2006/6/25 あなたは物ではありません」をご参照いただければ幸甚です。 

ゴルフボールが飛んでいるような素粒子のイメージは妄想で、エネルギーをある塊でやり取りすると言う意味での粒子性かと思っています。これも実はバイオリンの振動のようなものかと思っています。
 「続、雑感」の中の「2006/7/9 宇宙の表(おもて)面と裏面」をご参照ください。 

●時間は過去から未来へ流れている。 
●未来から来る信号はない。 
●過去は変えられない。 
●光の速度を超える情報の伝達はないので情報が一瞬で伝わることはない。 
●時間の流れは一定である。 
●私たちが存在している空間という舞台は、碁盤の目のように整然としている。 
●原因があって結果がある。 
○時間は、ミクロの世界では可逆であり、不可逆なのはマクロな世界でのみであると思っています。
「続、雑感」の中の、「2006/2/5 どうして未来を見れないのか 」や「2006/2/12 なぜ時間は過去から未来へしか流れないのか」をご参照いただければ幸甚です。 

未来から来る信号は存在し、これは先進波と呼ばれるものです。 
結果が、先進波として時間を遡って原因に影響を与えるので、こういった意味で過去は変えられるのではないかと思っています。
「続、雑感」の「2006/7/9 EPRパラドックスと量子交流解釈」をご参照ください。 

時間は、上空では速く流れています。 
光の先端で波乗りをしている人から見ると、距離はなくなり、時間は流れなくなります。 
「続、雑感」の中の、「2006/1/29 特殊相対性理論と大日如来」や「2006/5/15 地上より上空の方が時間は速く流れる!?」をご参照ください。 

●見ていないときにも月は厳然として夜空に存在している。 
○見る事によって、そこに質量を作り出すという仕組みがあるかもしれないと思っています。 
「雑感」の中の「2005/7/3 波束の収縮と唯識」あたりをご参照ください。 

●あなたはあなたであり、私は私である。 
○この世界は、ホログラフィックな構造であり、部分を論じることにあまり意味がないと思っています。従いまして、あなたや私というように「分ける」ことは出来ないと思っています。 

●ピッチャーの投げたボールは放物線を描いてキャッチャーのミットに収まる。 
●あなたはJRの改札の一つだけを通過している。 
●地球は太陽の引力を受けて、太陽の周りを回っている。 
○これは、「続、雑感」の「2006/4/23 パラレルワールド」などをご参照ください。 
ある意味、私たちはあらゆる経路を辿ります。あらゆる経路をかぎまわって、作用と言うものが最小となる現象だけが顕現しています。これが、ファインマンの経路積分量子化の醍醐味です。私のホームページは、結局このことをご紹介するホームページなのです。 

●記憶とは過去の出来事に関しての事である。 
●記憶は脳みその中にある。 
○量子論の波動関数には、過去も未来も畳み込まれていますので、これをもし記憶と呼ぶのであれば、未来の記憶もあるのではないかと思っています。この波動関数は、唯識論の阿頼耶識やユングの集合無意識に近いものかと思っていますので、記憶は脳の中だけにあるのではないと思っています。 
「雑感」の中の、「2005/1/23 阿頼耶識と経路積分」をご参照ください。 

これらは、私の妄想かもしれませんし、勝手な解釈かもしれません。 
ただ、ホームページで書いている数式は、ウソ偽りはなく、真面目に解いてみたものです。



2006/7/29 粒子か波動かを決めるプランク定数
ファインマンの経路積分では、波動関数 
ψ = exp(iS/h) 
と言うものが、非常に大きいな役割を果たしています。 
expは指数関数、Sは作用と呼ばれるもの、hがプランク定数です。作用Sは、経路一つに対して、一つの値に決まります。 
現象への寄与はψを全ての経路について足し合わせることで求まります。つまり、 
Ψ = Σψ(Σは全ての経路に対する和) 
です。 

exp(iθ) = cosθ + isinθ 
というオイラーの公式が有名なように、 
exp(iS/h)も正弦波と余弦波で表すことが出きる波なのです。 
そして、波の位相(波の山や谷を表すもの)と呼ばれるθに相当するS/hに着目してみます。 
私たちの住んでいるマクロな世界では、長さ・質量・時間などが大きいため、プランク定数hに比べて作用Sは非常に大きいのです。従いまして、位相S/hは非常に大きな値(角度)になります。 
ψ = exp(iS/h) = cos(S/h) + isin(S/h) 
におきまして、ψの実数部や虚数部はこの角度の正弦関数(cos)や余弦関数(sin)ですので、正にもなりますし負にもなります。経路をわずかな量だけ変化させますと作用Sの変化もマクロな尺度では微小ですが、プランク定数hの単位で計りますと変化は微小ではありません。つまり、hが非常に小さな値なので、Sがマクロな尺度で少し変化すると、S/hは大きな変化になるのです。従いまして、正弦関数や余弦関数は、Sを変化させると、正と負の値の間を非常に激しく振動します。全体の寄与は、これらが足し合わさって0になります。なぜなら、ある経路が正の寄与をすれば、マクロな尺度で微小量だけ異なる経路は同量の負の寄与をしますので、あわせると0になってしまうのです。 
従いまして、近接する経路が異なる作用を持つ場合は、それらの経路を考慮する必要がありません。なぜなら近接する経路が互いに寄与を打ち消しあうからです。 
しかし、作用が極小値をもつような特別な経路の場合には、経路をわずかに変えてもSは変化しません。この領域にある経路の寄与はほとんどが同位相でありますので、打ち消しあわないからです。従いまして、この領域にある経路だけが残ります。 
これが古典軌道です。つまり、ピッチャーが投げたボールが放物線を描いているように見えるのは、この軌道だけが波が打ち消しあわずに残っているからなのです。 
このように、マクロな世界では、Sが大きいため非常にシャープな軌道だけが残るのですが、ミクロな世界ではそういうわけには行きません。 
なぜなら、ミクロな世界では、作用Sはプランク定数とほとんど同じオーダーだからです。 
従いまして、S/hは1程度の大きさとなり、Sを変化させてみても、位相S/hは激しく振動せず、緩慢に振動します。 
従いましてかなり広い領域の経路が、寄与することになります。 
電子と呼ばれているものが、軌道がはっきりせず、雲のように広がっているというのは実はこういうことなのです。 
シャープな経路だけが残るのではなく、かなり広範囲のいろいろな経路が残ってしまうため、雲のように見えるわけです。 
マクロな世界では、軌道と言うものがはっきりと定まり、ボールのような粒子性が際立ってきますが、ミクロな世界では、軌道がはっきりと定まらず、雲の広がりのような波動性が際立ってきます。 
このように、プランク定数に比べて作用Sが大きいのか小さいのかによって、現れてくるものが粒子のように見えたり、波のように見えたりしているわけです。 
プランク定数は、現れる現象が粒子的なのか波動的なのかを決めている非常に重要な物理定数なのです。 



2006/7/29 プランク長、プランク時間、そしてプランク質量
湯川秀樹が以前、空間素や時間素について考えていた時代があったというのを何かの本で読んだことがあります。 
この様なものがあれば、時空はまさにモザイク構造ということになります。 
現在では、プランク長、プランク時間、そしてプランク質量という概念になっています。 

先ほど、マクロな世界では軌道がシャープになり、逆にミクロな世界では雲のようになってしまうというお話をしました。 
このシャープさ(いかに存在を狭い範囲に集中させることができるか)は、実は質量が大きなカギを握っています。量子論によりますと、 

シャープさ(存在の範囲の狭さ)= √(m/h) 

となります。hはもうお馴染のプランク定数で、mは質量です。 
質量mが分子にありますので、シャープさ(存在の範囲の狭さ)は質量に比例します。 
つまり、質量が大きくなると広がりはシャープになり、質量が小さくなると広がりが大きくなるためぼやけた存在になるのです。 

狭い範囲に存在を集中させるためには、質量を大きくしてやる必要があるのですが、質量をどこまでも大きくしてゆけば、存在としてどんどん確固としたものになるのかというと、そこにはまた別の問題が生じてきます。 
ここに一般相対性理論が介在してくるからです。 
つまり、質量が大きくなってくると、トランポリンの上に重たい鉛の玉を置いたように、その周りの空間が極端に歪んでしまうからです。 
そして、その内部空間は、外側とは一切の情報が遮断される別世界(事象の地平線の向こう側)になってしまいます。 
この内部と外部を分ける長さの指標になっているのが、シュバルツシルト半径です。 

量子論の観点からは、質量を大きくしてゆくと存在としてシャープになってくるのですが、一般相対性理論の観点では、質量を大きくしてゆくと、シュバルツシルト半径内に隠れてしまい、存在として認識できなくなってしまうわけです。 
「存在としてはかなりシャープであるが、シュバルツシルト半径内に隠れない」このギリギリの距離のことをプランク長といい、このときの質量をプランク質量といいます。そして、プランク長を光が通過する時にかかる時間がプランク時間です。 

あなたは魔法使いです。そして、半径10cmの鉛の玉が置かれたトランポリンの横に立っています。 
トランポリンの上に鉛の玉が見えます。あなたが呪文を唱えると、鉛の玉はどんどん重くなってゆきます。そして玉はどんどん小さくなって(シャープになって)ゆきます。それに従いまして、鉛の玉はトランポリンに沈んでゆきます。 
さらに呪文を唱えると、鉛の玉の密度はさらに大きくなり、トランポリンの表面が極端に歪んでしまったので、とうとう鉛の玉は見えなくなってしまいました。このときの鉛の玉の半径がプランク長というわけです。トランポリン側もこのくらいの距離のところで極端に歪んでしまっていますので、これ以上短い距離を論ずることに意味がなくなってしまうわけです。 



2006/8/6 色即是空を理解する。
観自在菩薩(観音さま)が気が付いた色即是空を、1940年代にリチャード.フィリップ.ファインマンが数式の形にしてくれた。 
いまや、私たちは色即是空を感覚としてだけではなく、理論として理解することができるのだ。 
あ〜ありがたい、ありがたい。ファインマンより後に生まれることができて。 
粒子を一つ二つ・・・と数えることができるのは、実は粒子が存在しないからなのである。この世が、指数関数の上にもう一つ指数関数が乗っている構造になっているからなのだ。これをテーラー展開するだけで、自然数の概念が出てくるのだ。プランクが気付いたエネルギーが飛び飛びである(En = nhv)という事実は、粒子が存在しないから成り立つのだ。そして、指数関数で表されるというのはこの世が波動でできている証拠である。 

粒子の位置と運動量を同時に測定できないのは、この世がフーリエ変換という、あらゆる波長の波の重ね合わせでできているからなのだ。不確定性原理の本質は、この世がフーリエ変換でできているからなのだ。波なのである。 

この世が粒子でできているなどという証拠は無いのだ。 
この世が波動であると言う証拠はいっぱいあるのだ。 

この宇宙のバラエティーに富んだ表情は、決して粒子性からは出てこず、波としての性質を前提にして初めて説明が可能になる。 
もしこの宇宙を創った神がいるとしたら、その神が得意としていたのは、数学のフーリエ変換だったのだろうと思うほど、この宇宙は時間空間の世界とエネルギー運動量の世界(振動の世界)のフーリエ変換の構造が随所に現れている。 

物など無いのだ。あるのは、振動のパターンだけなのだ。 
この振動のパターンの中から、最小作用の原理という法則にしたがって、現象が現れているのだ。 

色即是空がわかると苦しみがなくなるというのは、本当である。 
瞑想したり、音楽を聴くと、そのとき脳内モルヒネが出てきて頭の中がいい気持ちになるでしょう。 
色即是空を理論として理解してしまうと、朝から晩まで恒常的に頭の中から脳内モルヒネが出ている状態になりますよ。 

現代版般若心経、それは、 
「ファインマン経路積分と量子力学」(R.P.ファインマン/A.R.ヒッブス著 マグロウヒル) 
である。 
おっと、この本は絶版になっている。 

でも心配はいらない。 
「量子力学と経路積分」(R.P.ファインマン/A.R.ヒッブス著 みすず書房) 
として復刻されている。 

ファインマンという物理学者が、色即是空を数式にできたのは、ある意味当然の流れと言えよう。 
色即是空とは「宇宙観」なのだから。 

(ファインマン本人は、決して色即是空を数式にしたなどとは思っていません。彼は経路積分という量子論を発見しただけです。)



2006/8/19 認識の誤謬
「一般に二つの要素は空間的時間的に隔たっていればいるほど相互関連が弛くなる」という主張は、周知の、しかもほとんど自明の理を云い当てていると思います。逆に、空間的時間的に接近している場合には、要素のあいだに緊密な相互関連がみられます。或る色が見えていた個所に手をもっていってそれを覆いますと、温かさ、冷たさ、滑らかさ、粗さといった或る触感覚が感ぜられます。他人の手、つまり、当の個所に見えるまたは触れうる手も、やはり同様な触感覚を経験するらしいことがその挙措から判ります。或る時空間点におけるこういう緊密な要素結合体が、普通には物質と呼ばれています。物質とは、一人の人間のさまざまな感官感覚の、またさまざまな人々の感官感覚どうしの、時空間的結合体にほかなりません。尤も私共は要素の人体に対する依存関係つまり感覚にではなく、要素一般の相互関連ないし反応に目を向ける場合には、「要素の反応が時空間的に結合している個所を物質と呼ぶ」ということもできます。先の云い方は生理学的ないしは精神・生理学的な表現であり、あとの云い方は物理学的な表現です。

以上、認識の分析(エルンスト・マッハ著)より転載。

●味覚とは

甘い、しょっぱい、苦い、辛い、これらは味覚と呼ばれるものです。 

味覚とは、舌の上だけに存在するものなのでしょうか? 
味覚とは、食べ物と舌とが接触した時にのみ初めて発生するものなのでしょうか? 
それとも、舌に触れる前の食べ物の中に客観的に存在しているものなのでしょうか? 
食べものの中に、あらかじめ甘さや辛さは存在しているのでしょうか? 

食べ物を指で触ってみても甘さは感じません。 
食べ物を足で踏んでも辛さは感じません。 

客観的に存在する甘さや辛さは存在せず、舌と接触することによって初めて味覚は発生するのでしょうか?

●においとは 

くさい、香ばしい、これらはにおいと呼ばれるものです。 

においとは、鼻の中だけに存在するものなのでしょうか? 
においとは、空気と鼻とが接触した時にのみ初めて発生するものなのでしょうか? 
それとも、鼻に触れる前の空気の中に客観的に存在しているものなのでしょうか? 
空気の中に、あらかじめくささや香ばしさは存在しているのでしょうか? 

空気を指で触ってみてもくささは感じません。 
空気を足で踏んでも香ばしさは感じません。 

客観的に存在するくささや香ばしさは存在せず、鼻と接触することによって初めてにおいは発生するのでしょうか? 

●音とは 

せみの鳴き声、人の会話、これらは音と呼ばれるものです。 

音とは、耳の中だけに存在するものなのでしょうか? 
音とは、空気と耳とが接触した時にのみ初めて発生するものなのでしょうか? 
それとも、耳に触れる前の空気の中に客観的に存在しているものなのでしょうか? 
空気の中に、あらかじめせみの鳴き声や人の会話は存在しているのでしょうか? 
(おそらく存在しているのは、空気の振動だけでしょうね。) 

空気を指で触ってみてもせみの鳴き声は感じません。 
空気を足で踏んでも人の会話は感じません。 

客観的に存在するせみの鳴き声や人の会話は存在せず、耳と接触することによって初めて音は発生するのでしょうか? 

●それでは、視覚とは

目の前にパソコンが見えます、目の前にキーボードが見えます、これらは視覚と呼ばれるものです。 

視覚とは、眼の中だけに存在するものなのでしょうか? 
視覚とは、光と眼とが接触した時にのみ初めて発生するものなのでしょうか? 
それとも、眼に触れる前の光の中に客観的に存在しているものなのでしょうか? 
光の中に、あらかじめパソコンやキーボードは存在しているのでしょうか? 
(存在しているのは、光の振動だけなのでしょうか。) 

光を指で触ってみてもパソコンは見えません。 
光を足で踏んでみてもキーボードは見えません。 

客観的に存在するパソコンやキーボードは存在せず、眼と接触することによって初めて視覚は発生するのでしょうか? 

●結局、物とは 

私たちは五感を通して物を認識しています。 

物とは、眼や耳や鼻や舌の中だけに存在するものなのでしょうか? 
物とは、外界と感覚器とが接触した時にのみ初めて発生するものなのでしょうか? 
それとも、感覚器に触れる前の外界の中に客観的に存在しているものなのでしょうか? 
外界に、あらかじめ物は存在しているのでしょうか? 
(こう考えると、感覚にのぼってくるものとは別の形で、例えば振動として、しか存在していない!?) 

感覚器がなければ、物を感じません。 

客観的に存在する物は存在せず、感覚器と接触することによって初めて物は発生するのでしょうか? 

○味覚と視覚を比較してみると面白かったので書いてみました。 
私たちは視覚から得ている情報が大半ですので、見ているものを本当のものだと思っていますが、味覚や聴覚と、視覚を比較してみることは示唆的です。 
辛さや甘さは、舌と食べ物が触れることによって初めて生まれる感覚だと思います。 
このことから推察されることは、赤い花や丸い玉という視覚も、眼と光とが接触することによって初めて生まれるものなのではないかと考えました。 
私たちが視覚を通して存在していると信じている物は、実は、眼と光が接触した後に発生したものなのではないかと思ったわけです。 
音が、感覚される前はだだ単に空気の振動に過ぎないのと同じように、見ているものも、感覚される前は、見ているものとはかなり、あるいは全く異なるものなのかもしれないと。 



2007/4/18 三つの錯覚
@時間と空間という錯覚(特殊相対性理論)

光の波の先端でサーフィンをしている人に、宇宙はどのように見えるのでしょうか。時間はどのように流れるのでしょうか。 
特殊相対性理論によれば、速さが速くなるほどローレンツ変換により空間は収縮し時間の流れは遅くなります。 
従って、光に乗っている人には、時間が流れなくなり、全てのものの距離がゼロになるので、あらゆるものが同時に見えることになります。太陽から出た光に乗っている人には、一億五千万キロ離れている地球を通過するのに全く時間がかからないのです。 
光の速度になると全てのものの距離がゼロになるので、太陽から出発したのと同時に地球を見、火星を見、木星を見、・・・宇宙全体を同時に見ることになります。 
これは、光に乗っている人が、宇宙全体に同時に存在している、あるいは、宇宙全体と同時に接触していると言えます。 
あるいは、光に乗っている人のところに、宇宙全体が存在していると解釈が出来ます。 
「光に乗っている人が宇宙全体に同時に存在している」というと、これは真言密教の大日如来のイメージに近いです。 
「光に乗っている人のところに、宇宙全体が存在している」というと、これは華厳経の毛穴の中の宇宙に近いイメージです。 

光の速度では、時は流れず、全てのものが同時に距離ゼロでそこに存在していることになります。 
速度が遅くなってくると、時が流れ始め、空間距離が発生してくるわけです。時間が流れ始め、それとあれとが離れてくるわけです。 
特殊相対性理論が正しければ、時間や空間が存在する理由は、「速度が遅いから」なのです。


A現実という錯覚(経路積分) 

現実の世界はあまりにも「常識」とかけ離れており、隠れています。
真の現実は、あまりにも「常識」とかけ離れていて、ひそかに隠れているため、なかなかこの真の現実に気が付くことができません。 

オレンジ色の東京タワー、煌々と光が点燈している六本木ヒルズ、青白く輝く月、、、 
東京の夜景です。 
この東京の夜景にパチンコ玉を投げ込んでみますと、景色が波立って、こきざみにゆらめき、目の前の景色はたくさんの光の集まりに雲散霧消してしまいました。。。 

東京の夜景が映りこんでいた池に、パチンコ玉を投げ込んだときに起こる現象です。 

現実はもう少し複雑ですが、イメージとしてはこの現実もこの池に映りこんだ夜景のようなものです。 

池にパチンコ玉を投げ込むと景色がかき消されるように、この確固たる現実をかき消す何かの方法があるかもしれません(プランク定数を増大させる方法があれば確実に可能です)。 

現実は、ただ心が創り出しているだけとしたら、それも可能かもしれません。 
あるいは、密教の僧やヨガの行者が、いにしえから行ってきた方法がそれなのかもしれません。 

いずれにせよ現実は、常識で思っているほど確固としたものではありません。 
「本質」と「常識」とは異なるもののようです。


B物質という錯覚(観測問題)

観測とは、牛乳の中にパチンコ玉を落下させるようなものかもしれません。牛乳がパチンコ玉に触れた瞬間にミルククラウンができます。
ここで、牛乳の海が観測前の波に相当し、ミルククラウンが観測後の粒子、パチンコ玉が観測装置ということになります。
牛乳の波の中からミルククラウンが「生成」するように、スクリーン上で観測された電子は、実は「観測」されたのではなく、「生成」されたのではないかと思っています。
遍在していた牛乳の海から局在したミルククラウンが発生します。「偏在と遍在」(※補足)で述べましたように、遍在から局在の過程では、必ず質量の増大が伴います。
つまり、観測という行為によって、質量が生成される、もう少し、ドラマチックに書けば、「見ることによって物が創られている」ということになりはしませんでしょうか。
「見る」という行為は、ただ単にすでに存在するものを認識するという行為ではなく、それによって、そこに物や現象を創出する行為であるということが出来る可能性の萌芽がここにあります。


※補足(偏在と遍在)

キャッチボールのようにマクロな世界では軌道がシャープになり、逆に電子のようにミクロな世界では雲のようになってしまいます。 
この存在のぼやけ具合をボラティリティー(いかに存在が広い範囲に広がっているかを表す指標)と呼んでおりまして、実は質量が大きなカギを握っています。量子論(ネルソンの確率力学)によりますと、 

存在のボラティリティー(存在の広がり具合)= √(h/m) 

となります。hはもうお馴染のプランク定数で、mは質量です。 
質量mが分母にありますので、ボラティリティー(存在の広がり具合)は質量に反比例します。 
つまり、質量が大きくなると存在は狭い範囲に押し込められ(物質的になり)、質量が小さくなると広がりが大きくなるためぼやけた存在(波動的)になるのです。 
質量が大きい私達は物質として偏在していますが、電子くらいになると波動性が顕著に表れ、質量のない光は遍在してくるわけです(ボラティリティーが無限大=存在の広がりが無限)。 

私達が時間に縛られたり、空間的距離に悩まされたりしているのは、 
「光速に比べて遅すぎるから」 
なのです。 
そして、なぜ光に比べて遅いのかというと、 
「質量が大きいから」 
なのです。 
質量が大きいと偏在(狭い範囲に存在)してしまいます。 

存在のボラティリティーの式には質量だけではなくプランク定数も入っていますから、質量が小さくなるか、あるいはプランク定数が大きくなってくれれば、この式により存在の広がり具合は大きくなってくる、つまり遍在(全体に存在)してくるわけですね。 

そういうわけで、プランク定数をもし何かの技術で大きくすることができたら、私達は波のように拡散してしまうことになるのです。


Cまとめ

私達が、空間や時間が確固として存在していると錯覚していたり、この世が局在している物質からできていると錯覚しているのは、私達の存在が光速に比べて遅く、プランク定数に比べて質量が大きいからなのです。 

光速に近付いたり、プランク定数が質量と同程度の世界では、日常経験しているこの世界とは全く異なる世界が繰り広げられることになるのです。 

光速に比べて遅く、プランク定数に比べて質量が大きいのでたまたまこんな世界になっているだけなのです。

そして私たちがこの世界の現象の顕われ方に、積極的に関与しているのも事実のようです。



2007/5/20 宇宙のランドスケープ
「メガバースのどこかで、定数はこの値になり、ほかの場所では別の値になる。私たちは定数の値が私たちの生活と調和する一つの小さなポケットの中で生きている。(p427)」

「波動関数のどこかで、定数はこの値になり、ほかの場所では別の値になる。私たちは定数の値が私たちの生活と調和する一つの小さな枝の中で生きている。(p427)」

「現代物理学のもっとも奇妙な発見の一つは、世界は一種のホログラフィック画像だということである。しかしもっと驚くべき点は、ホログラムを構成する画素の数が、対象とする領域の体積ではなく面積にのみ比例することである。・・・・・・ 
大きなブラックホールに落ち込んで行く物体があり、ブラックホールから放射が出ている場面を想像してほしい。その場面全体を、どこか離れた空間の境界面にある量子ホログラムで説明することができる。しかし、ホログラムを解読するための可能な方法が二つある。つまり、ホログラフィック画像をつくり出すアルゴリズムが二つあるのだ。一つめは、ブラックホールの外から見たように場面を構成し直し、ブラックホールに落下してくるすべてのビットはホーキング放射によって運び去られる。しかし二つめの構成方法では、ブラックホールに落ちて行く人から見える場面がつくり出される。ホログラムは一つだが、その内容を構成し直す方法が二つあるのだ。・・・・・・ 
三次元の世界がまったくの幻影であるというのは、言いすぎだろう。だが、情報のビットの場所は必ずしも予想された場所にはない、ということは今では広く認められている。(p450)」 

これらは、「宇宙のランドスケープ」(レオナルド・サスキンド著 日経BP社)より抜粋。 

※レオナルド・サスキンド 
超ひも理論の大御所中の大御所。主な貢献としては、超ひも理論のきっかけとなった公式の背後に「ひも」があることの発見や(南部陽一郎氏と独立に発見)、超ひも理論による「ブラックホール・エントロピー」の説明など。ほかにも「ブラックホール相補性」や「ホログラフィック原理」といったアイディアを提唱しており、超ひも理論研究者のなかでは、オピニオン・リーダー的存在。 



2007/6/17 「存在」のイメージ
私たちの存在は、電光掲示板のようなものかもしれません。 
NASDAQの株価ボード上には、いろいろな会社の株価の数字が右から左へ流れているのを見ることができます。 
ランプが規則正しくたくさん並べられた掲示板の上で、順番にランプが明滅すると、あたかも光の点が動いてゆくように見えるように、私たちの存在もこのようなものにたとえることができます。 

あるいは、ドッドカラープリントのようなものかもしれません。 
女性の顔が印刷されている化粧品のカラーのポスターをよ〜く細かく見てみますと、赤や青や黄色の点がたくさん見えてきます。それらの点の集まりで、きれいな女性の顔が出来上がっています。このドットカラープリントのポスターは平面ですが、これにもう一次元と、動きを加えたものが私たちの存在なのかもしれません。 

紅い点や青い点、黄色い点の塊が、右へ左へゆ〜らゆ〜らとうごめいている状態です。 
遠目で見れば、赤い点や青い点、黄色い点の塊がぼやけてきて、笑ったり怒ったりして表情が動いている人間の顔に見えてきます。 

この世界の場合、この赤や青や黄色の点は、実は印刷された点ではなく、波の波紋です。雨の日の池を思い浮かべてみてください。 
土砂降りになると池の表面は波紋だらけになります。 
ドッドカラープリントのポスターの場合は、赤や青や黄色の点がたくさん集まっているところに顔などが存在しているのと同じように、この世界では、波紋がたくさん存在しているところに「もの」があることになります。 
私たちが存在しているところは、場の中で波紋だらけの所ということになります。 

私達が動くという事象を、近寄ってよ〜く見てみますと、実はたくさんの波紋からできている塊が、ゆ〜らゆ〜らとうごめいている状態が見えてくるかもしれません。 





戻る
戻る



Copyright (c) Yoshio.Kishi 2003-2009 All Rights reserved.