雑感 (数式を見ると頭が痛くなる方はこちらへどうぞ)

2004/11/9 この世は幻なのか?
この世は幻なのか?ミクロな世界では、波の中から、ミルククラウンのように
波の固まりが現れては消え現れては消え、、、これが粒子と呼ばれているもの
の実態のようだ。。。波に働きかけると粒子が現れる、、、そして、また
全体性の中に消えてゆく、、、
でも、いま触っているパソコンのキーボードやマウスは確固とした存在。。。
このミクロとマクロのギャップは?
でもマクロな世界もミクロな世界の上に成り立っているとすれば、
この世界も虚偽虚妄なのか?
我見るゆえに月あり、、、月があるから見えるのか、見るから月が
存在するのか。。。
そして、この波という全体性と、そこから現れる粒子性は、「空」と「色」に
それぞれ対応するのか。
だとすれば、「空」に対応する全体性の波には、開闢以来の宇宙が畳み込まれ
ているので、「空」は決してからっぽではなく、むしろ満ち満ちている。
そして、あらゆる部分とあらゆる時間が関わり合って、この世界が現出して
いるが、これが、華厳の構造(理と事が映りあう世界)と
対応しているのか、、、



2004/11/11 反物質について
過去から来た電子と過去から来た陽電子(反電子)が衝突するとそれぞれは
消滅して、光子が発生しますが、
これは、過去から来た電子が、光子を放出して、その電子が「過去に遡る」
とも読めるのです。
時間の因果律を守ろうとすると、反物質が存在する必要がありますし、
反物質を導入しないと、因果律が崩れてくるのです。
時間とはいったい、、、。
(粒子性を否定しておきながら、電子や光子という言葉を使ってすいません)



2004/11/13 時間を遡る電子と華厳経
過去からやってきた電子は、光子を放出して、時間に跳ね返され、過去に遡り始める。
しばらく過去に遡ると、光子を吸収して、また時間に跳ね返され、未来に進み始める。
するとまた光子を放出して、過去へ遡り・・・
電子はこれを繰り返している。時間方向のジグザグ運動だ!
この現象を、ある瞬間で見てみると、ここにもあそこにもその向こうにも同じ電子が存在することになる。
ここの電子は、あそこの電子と同じ電子であり、その向こうの電子もこことあそこの電子と同じ電子である!つまり、宇宙の全ての電子は、実はたった一つの電子であって、時間の中を前後に跳ね返っているに過ぎない!
ひいては、同時刻に存在する「私」は「あなた」であり、「地球」は「太陽」であり、「天の川」は「銀河」であることになる。
つまり、全宇宙は一つの電子で構成されており、それが何億兆回も繰り返して見られているに過ぎないということになる。
これは、華厳経の「微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り・・・」である。



2004/11/13 内向き球面波
この世に存在する電磁波のうち、外向き球面波(時間と共に外向きに広がってゆく波。または遅延波)は観測されるが、内向き球面波(時間と共に内向きに収縮してゆく波、あるいは未来から過去に時間を遡って外向きに広がって行く波。または先進波)は観測されない。ここで大胆な仮定をしてみると、
我々の存在は、内向き球面波(先進波)が干渉しあって強め合ったものか?



2004/11/13 不確定性原理は波の性質
不確定性原理は波の性質です。
k空間(波数空間)とx空間(普通の空間)におけるフーリエ変換
f(x)=(1/2π)∫g(k)exp(-ikx)dk
において、
右辺は、波数kの平面波exp(-ikx)をg(k)の割合で重ね合わせる事を意味していますが、あらゆるkについてまんべんなく混ぜ合わせれば、つまりg(k)=1とすれば、
f(x)=δ(x)となって、x空間では局在した波になります。
逆に、あるkだけを選んで混ぜれば、つまりg(k)=δ(k)とすれば、
f(x)=(1/2π)exp(-ikx)となって、
x空間にまんべんなく存在する平面波になります。
このように、k空間の波の分散を広げてゆけば、x空間では波が狭まってゆき、
逆に、k空間で波を狭めれば、x空間の波は広がってゆきますので、これが、k空間とx空間の不確定性関係です。
不確定性関係は、波動のあたりまえの性質です。
p=(h/2π)k、E=(h/2π)ωと、アインシュタインとドブロイがやってしまったために、不確定性関係が、粒子の世界に持ち込まれ、皆さんが議論しているような、なにやら不思議な感じをかもし出していますが、この世は波動で、粒子と呼んでいるものも、実はパルスのような波に過ぎないと考えれば、不確定性関係が成り立つことは、無理なく受け入れられるのではないでしょうか。 



2004/11/13 粒子よ、さようなら
不確定性原理が確かめられている現在、
西洋的キリスト教世界の中で脈々と受け継がれてきた「粒子」の概念が、捨て去られるべき時代がやって来たと言ってもいいのではないでしょうか。
波→粒子→不確定性原理
と考えた場合に、やはり粒子は不要な概念です。
「粒子」とは、古典物理学で世界観を表現しようとした時の一つのモデルだったのでしょう。
そして、不確定性原理が確かめられた現在では、この「粒子」というモデルも粗雑な近似であったことに気付くべきなのではないでしょうか。



2004/11/15 珍しい波(三次元波動方程式の伝播関数)
>もし、光が波の性質しかなければ何万光年と言う遠距離にある星(恒星)から来る
>光のエネルギーは薄まり、目の網膜を励起させるだけの力は無いそうです。

そうですよね。光が普通の波であれば、夜空を見上げてから何時間(あるいは何日)もたたないと、星が見えてこないのですよね。
ただ、ちょっと気になっている波があります。それは、三次元波動方程式の伝播関数(Green関数)です。この波は、ちょっと珍しい波でして、攪乱が尾を引かない(光源からctの距離にある球面上だけにデルタ関数的な攪乱があるだけで一切尾を引かない)波です。言い換えれば、パルス状の波が光速で球面上に広がってゆく波です。ただこの波も、距離に比例して強さが弱くなってしまいますが、この波を時間や空間で微分してあげたものは遠くまで届きます(攪乱が尾を引いていないため、時間方向や空間方向の傾きがものすごく大きいので)。
光でいえば、波動方程式を満たしているのがベクトルポテンシャルなので、時間微分したものは電場です。電場は単位電荷に働く力ですので、光が私たちの目に届いたときに、何がしかの撃力(パルス状の波束)が発生しているのではないかと、私は考えています。私の勝手な妄想ですが(笑)
光源から、ものすごい数の光子が撒き散らされているという描像がど〜〜も私の中では腑に落ちないのです。



2004/11/16 光子とは粒子なのか?
>原子は光のエネルギーをある大きさの塊としてしか受け取りません。

私が不思議に思っているのは、まさにこの点です。
光がある大きさの塊で原子にエネルギーを渡している時、そのエネルギーはhνというはっきり決まった値です。光の場合、E=cpなので、その時の光の運動量はp=hν/cとなり、これもはっきりと決まった値です。
一方、不確定性原理によれば、運動量がはっきりと分かっている時の位置の情報は全く分からないので、このとき、光子の場所は特定できません。

つまり、光子が原子にある大きさのエネルギーの塊を渡している時、光子はどこにいるのか全く分からないのです。

「ある大きさの塊でしかエネルギーのやり取りが出来ない」ものを光子と呼んでいるときもあれば、二重スリットの実験のように、「スクリーン上に輝点として現れる」ものを光子と呼んだりもしていますが、不確定性原理が正しいとすれば、この2つの状態は全く異なる状態です。前者は、エネルギーひいては運動量がはっきりと決まっているのに対して、後者は、位置がはっきりと決まっているからです。

ほんとに光子は粒子なのでしょうか? 



2004/12/4 この世は複素数の波で出来ている
この世界は、複素数の波で出来ているのはほぼ確実でしょう。
連続して起こる事象や独立事象は、複素数の波(コルクスクリュー)の積で表わされ、同時に起こる可能性のある事象は、複素数の波の和で表わされます。

そして、複素数の波を足し合わせた結果、位相がそろっている部分だけが残り、現象や物として現れています。

フェルミ粒子(電子、陽子、中性子など)とボーズ粒子(光子、中間子など)を分けているのも複素数の波が関係しています。
a、bの粒子が衝突して1、2の方向へ散乱されるとき、その状態は、
<1|a><2|b>+exp(iδ)<2|a><1|b>
と表わせますが、δ=0の時、ボーズ粒子で、δ=πの時、フェルミ粒子になります。
ここで、<1|a>や<2|b>は、「粒子aが方向1へ散乱される時の複素数の波の振幅」と「粒子bが方向2へ散乱される時の複素数の波の振幅」を表わしています。
つまり、
ボーズ粒子:<1|a><2|b>+<2|a><1|b>
フェルミ粒子:<1|a><2|b>−<2|a><1|b>
となります。
よって、1と2の場所が同じ時、ボーズ粒子の振幅は2倍になりますが、フェルミ粒子の振幅は0になります(消えてしまう!)。よって、ボーズ粒子はなるべく集まっていたいのですが、フェルミ粒子はなるべく離れていたいのです。これもファインマンの経路積分で計算できます。

ボーズ粒子だけだったら、この世界は非常に単純なのですが、フェルミ粒子があるために、この世界にはバラエティーがあります。
電子がフェルミ粒子であるために(フェルミ粒子はなるべく離れていたいので)、周期律表に見られるようなさまざまな原子がこの世には存在していますが、これもバラエティーがあるように見えるだけで、実は複素数の波の積と和という単純な構造でこの世は成り立っています。

(粒子性を否定しておきながら、粒子という言葉を使ってしまい申し訳ありません。)

そして、二元論的な世界観の根源が、実は突きつめて見れば、このフェルミ粒子的なバラエティーから来ているのではないかと思っています。
実は、複素数の波という非二元論的あるいはノンデュアリズム的な世界がさらに奥底にあるのですが、それに気付かずに、フェルミ粒子的バラエティー(これは表層に現れた現象に過ぎないのですが)、これだけに着目してしまっているがために、二元論的な世界観が根付いてしまったのではないでしょうか。
仏教で言えば、このバラエティーは「色」ということなのでしょうか。
でもこの「色」は「空」の中から現れたものに過ぎないと般若心経は言います。そして「空」こそ、奥底にある非二元論的な複素数の波であり、その和や積は「縁起」にあたるのでしょうか。
本質的な複素数の波があって、その和や積を取ることで、現象や粒子性が現れます。これは、「空」から「縁起」によって「色」が現れていると読み替えることが出来るのでしょうか。
そして、「一切は心の働きが創り出す」と言う、華厳の唯識との関係は。。。



2004/12/9 華厳経の毘盧遮那仏、真言密教の大日如来、そして太陽
私は、仏教は初心者なのですが、
私の感覚では、毘盧遮那仏も大日如来も、太陽です。
時間の流れは、エントロピーが増える方向となぜか一致しています。
時間の流れがあるということは、「変化」があるということです。
諸行無常です。
どこかにエントロピーが小さい状態が存在すると、エントロピーは
増えたがる傾向にありますので、そこに「変化」が生じます。
エントロピーが非常に低い(小さい)状態が、すぐそばにあります。
光の速さだと、8分のところです。
そうです、太陽です。太陽は、まわりの宇宙空間に比べて、
極端に高温なため、エントロピーがものすごく小さいのです。

この世界の多岐にわたった「変化」の原因は、太陽の存在に負う所が
大変大きいのです。

エントロピーが低い状態というのは、大変起こりにくいのです。
つまり「在り難い」状態です。
ありがたや毘盧遮那仏、ありがたや大日如来、そしてありがたや太陽。
合掌。

(エントロピーとは、一言で言えば、「乱雑さ」です。)

                



2004/12/11 数式と華厳経
長年、数式をいじくり回しておりました結果、
「ある場所の状態には全宇宙の状態が畳み込まれており、ある瞬間の状態には
過去、現在、未来の状態が畳み込まれている」という感覚や、「あらゆる
二点間、あらゆる二時刻間が関係しあって、エネルギーとなっている」
そして、「見るまでは可能性の波動しかないのですが、見ることによって、
光子や、粒子がそこに現れる、働きかけることによって現象が顕現し
変化する」という感覚(イメージ)がはっきりとありました。
これらの感覚は、一般社会の通念とは、かなり異なる概念ですので、
私自身も、この感覚をどう処理したらよいのかわからなかったというのが
正直なところなのです。そんな時に出会ったのが華厳の世界でした。
そして、これらの感覚が、それぞれ華厳で言うところの「一即一切」、
「縁起」に酷似しており、三番目の感覚はかなり「唯識」に近そうだという
ことがわかり、安心したのです。



2004/12/24 現代物理における複素数
「光は直進する」と教わりました。
「光を鏡で反射させる時、入射角と反射角は等しい」と教わりました。
「レンズを使うと光を集めることが出来る」と教わりました。
常識としては良く知られた事実です。

でも皆さんは、なぜそうなるのかということを考えたことがあるでしょうか?

ファインマンさんは、これを考えました。
そして、これらの事実の背後には、複素数の波があることが分かりました。
この複素数の波をあらゆる道筋で足し合わせた結果、この複素数の波の位相が強めあった部分だけが「現象として残る」(あるいは「現象として現れる」と言っても良い)ということにファインマンさんは気がつきました。
これが経路積分量子化(注)の考え方です。

「直進しない光もあります」、「入射角と反射角が異なる光もあります」そして「レンズの焦点に行かない光もあります」
あらゆる道筋をたどる光が存在します。
でも、背後にある複素数の波の足し合わせの結果、「直進する光」や「入射角と反射角が等しい光」、「レンズの焦点に集まってくる光」のみが、現象として残り、われわれは、その表に現れた現象を見ているに過ぎないのです。そして、その表に現れた現象のみを教わってきたため、それを常識だと思っているわけです。

現代物理におきましては、虚数や複素数は計算のテクニックとして用いられるに過ぎないというというような位置付けのものでは決してなく、虚数や複素数こそ、この世界の成り立ちの本質的な部分を占めているといっても過言ではないでしょう。


(注)経路積分量子化
物理量を演算子に置き換えて波動関数に作用させるという従来の一般的な量子力学のアプローチとは毛色が異なり、演算子を一切使わないで、伝播関数だけで量子力学を再構築するというファインマンさんらしいエレガントなアプローチです。(ファインマンさんは、場の量子論がどうしても理解できず(恐らく謙遜でしょうが)、伝播関数を用いた独自の経路積分量子化の方法を考案したと言われています。現在では、ファインマンさんの理論と場の量子論は同等であることが明らかになっています。)



2004/12/24 複素数の波の中から現れた波の塊(表の世界に顕現した粒子性)
私も、2重スリットの実験につきましては、ずっと不思議に思っておりました。
エネルギーをある塊として渡すという光子の描像と、スクリーン上に現れる輝点としての光子の描像をなんとか、一元的に表わすことが出来ないかと15年ほど考え続けました。
そして最近では、やはりこの両方の描像を一元的に記述する最も合理的な考え方は、この光子を「波動性としての波束」と考えることなのではないかと思っております。
私のホームページにたびたび出て来ますところの、「包絡線がデルタ関数で、群速度がcの波束」です。
この波束は奇跡的な波でありまして、運動量と位置が、ほぼ決まっているのです。
複素数の波の中から現れた波の塊です。そしてこれはまるで粒子のように見えるのです。
さらに、この波の塊は、「見る」ことによって、初めて顕現するのです。



2004/12/24 虚空蔵菩薩
私は仏教の虚空蔵や、エドガーケーシーのアカシックレコード、華厳経の毛穴の中に含まれる宇宙、一瞬の中に含まれる永遠、そして、ファインマンの波動関数の畳み込み、それらはすべて、同じ事を言っているのだと思っております。
この蔵からは、あらゆるものが取り出せるのです。

ファインマンは、この波動関数のことを、宇宙の全ての歴史を含んでいる巨大な波動関数といっていますし、

真言宗では虚空蔵菩薩のマントラは
ノーボーアカーシャキャリバヤオンアリキャマリボリソワカ
ですが、このアカーシャはアカシックと語源が同じなんですね。

そして空海も、これを---宇宙は本の箱---と喩え、
「天と地とのあらゆる万象の動きから、真理、道理をみつけて文字で
あらわし、お経となり本となったのであって、そのもとはと言えば、
天地宇宙そのものである。だから、天地宇宙そのものから教えを
くみ取れば、いくらでもくみ取ることができる。いってみれば、
宇宙はお経や本のいっぱいつまった箱のようなものだ。」
と言っています。

ちなみに、私のホームページの仏様は、虚空蔵菩薩です。



2004/12/29 ファインマンさんの考えたこと
私も、物理学で、人間の感情の動きなどまで説明できるなどとは毛頭思っておりません。物理学はこの世界を表わす一つの描像に過ぎず、近似です。だだ、以下に申すような面白いことがこの世(「この世」は言いすぎとのお叱りを受けそうなので、この世の基礎的な部分)では起こっているという事をお知らせしたかったのです。
粒子は時空上のあらゆる可能な全ての経路にそって一つの位置からもう一つの位置まで移動するとファインマンは提唱しました。それぞれの経路に対して、ファインマンはまず二つの数をもたせました。第一は波の振幅で、第二は波の位相、つまり波が山になっているか、谷になっているかを示す数値であります。粒子がA点からB点に到達する確率は、それぞれの経路がもっている波を足すことで計算することが出来ます。しかし、日常の世界では、粒子は出発点から一つの決まった経路を通ってしか最終点に達しているとしか見えないのであります。しかし、これはファインマンの経歴総和法というアイディアに反するものではありません。日常生活で見られるような大きな物体の運動では、ファインマンの規則であらゆる経路、歴史に対して波が割り振られます。しかしそれらを合わせるとほとんどは互いに打ち消しあってしまい、残る経路は一つになってしまうのであります。巨視的な物体の運動の場合には、無限にある経路、歴史の中で残るものは、古典的な法則であるニュートン力学で計算して出てくるもの、そのものなのであります。
ビリヤードの玉の動きや、投げ上げたボールの動きなどは、まさにこの様な仕組みで軌道を描いているのです。



2004/12/29 時間のイメージ
現れた現象を中心に考えると、その変化を逐一追う為に「過程」という概念が出てきますが、現象は、その背後にある波の重ね合わせの結果現れた副次的なものです。時間や空間は場のようなもので、時間そのものが過去から未来へ流れているのではなく、時間は空間の様に前後の拡がりがあるだけなのですが、この時空の中から現れた現象が、たまたま、時間軸方向では、過去から未来という方向へ移動しているといったイメージを持っています。
時空の中から現れた現象が、空間方向では、前後、左右、上下に移動できるのに対しまして、時間軸方向では過去から未来の方向にしか移動できないのは何故なのかは未だよく分かりませんが。 



2005/1/2 現在の決まり方
あらゆる経路(空間)と未来を含めたあらゆる歴史(時間)を辿る可能性があります。
ある時刻に着目すれば、そのとき、この場所もあの場所もそしてさらにその向こうの場所も辿る可能性があります。そのときのエネルギーや運動量によって波の位相が決まりますが、可能性の波の重ね合わせの結果、波の弱めあう部分は消えてしまい、実際に辿ることになる場所が決まります。
空間と時間は対等です。
ある場所に着目すれば、そこでは、この時刻もあの時刻もそしてさらにその向こうの時刻も辿る可能性があります。そのときのエネルギーや運動量によって波の位相が決まりますが、可能性の波の重ね合わせの結果、波の弱めあう部分は消えてしまい、実際に辿ることになる時刻が決まります。
それが現在なのでしょう。

「現在」があるから、それを「我々が知覚している」
のではなく、実は逆で、
「我々が知覚する」からそこに「現在」が現れる
といった感じです。

「現在」を「現象」と置き換えてもいいと思います。
「現象」があるから、それを「我々が知覚している」
のではなく、
「我々が知覚する」からそこに「現象」が現れる
という感じです。

あらゆる可能性の中から、「私との相互作用の結果」、最も起こりやすいものとして現れている状態を、「現在」と呼んでいるというイメージです。

「現在」という言葉は、現象として「現」れ存「在」となるということなのです。



2005/1/11 発見
この三連休に、岩波現代文庫から出ている「物理法則はいかにして発見されたか」(R.P.ファインマン著。江沢洋訳)を読みました。
この本の第二部の、量子電磁力学に対する時空全局的観点の発展−ノーベル賞受賞講演
は、大変面白いです。
ファインマンのノーベル賞受賞講演が収められておりまして、ファインマンが経路積分量子化を頭の中で練り上げてゆく過程が、様々な試行錯誤やエピソードをふんだんに交えながら、簡潔な文章でまとめられています。
この中に出てくるP293の(1)式がキーポイントです。
そしてこの式は、マグロウヒルから出ている「ファインマン経路積分と量子力学」(R.P.ファインマン/A.R.ヒッブス著。北原和夫訳)の(9-101)式と一緒です。
さらに、私のホームページの「現代物理のおかしさ」の(1)式とも同じであることに気付きました。
ただし、前者のファインマンの二つの式が作用の次元で書かれている一方で、「現代物理のおかしさ」の(1)式は、エネルギーの次元になっています。
「現代物理のおかしさ」の(1)式は、ただ単に古典的なマックスウェルの方程式をいじくりまわしていたら出てきた式なのです。



2005/1/16 過去と未来、全宇宙を足し合わせるといまこの場所が現れます。
波動性からは、粒子のようなもの(波束)が導き出せますが、粒子性をどうこねくり回しても波動性は出てきません。

私の好きな球面波は、三次元波動方程式のグリーン関数、
(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)
です。
この関数は、撹乱が光速で球面状に拡がってゆくというものです。球の表面だけに撹乱があり、撹乱は尾を引きません。
所謂、ミンコフスキーの光円錐上に沿って撹乱が伝わるというものです。
これを時間で微分すると、平面波の重ね合わせになります。
さらにこの平面波の重ね合わせを、ある波数ベクトルのまわりでテーラー展開すると、包絡線がデルタ関数で群速度がcの波束になります。これはかなり光子にイメージが近い波束です。

電子と光の相互作用における基本構造は、
J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')
です。
電流(検出器)・伝播関数・電流(源)
これを右から左に読みます。
そして、これを全r'、全t'、全r、全tで積分したもの、つまり足し合わせたものが、現れる現象です。
現象を時間の関数として刻々の発展を論ずるだけでは、議論が不足しているようです。
現象を記述するには、全空間、全時間(未来も含めた)の相互作用を足し合わせてあげる必要があるようです。
全空間、全時間の状態を一斉に足し合わせることによって、いまこの場所の状態が決まるようです。
いまこの場所の状態を決めるには、過去と過去、未来と未来、そことあそこ・・・などあらゆる2時空点間の相互作用を一斉に足し合わせる必要があるのです。
空間が前後、左右、上下に広がっているように、時間も前後に広がったものです。
この時空の中の相互作用を全て足し合わせることによって、いまこの場所の現象が決まるのです。

そして、わたくしたちのなかでも絶え間なくこのようなことが起こっているのです。



2005/1/17 時間とはなんでしょう 〜十世隔法異成門との比較〜
時間とは、過去から未来への一方向に流れるというような淡々としたものではないようです。

過去と過去、未来と未来、過去と未来、などが、全て関わりあって一斉に現在が決まっているようです。

物理の方でも、時空全局的観点とファインマンは言っています。
過去と未来、全宇宙の状態を足し合わせるといまこの場所が現れます。
ほんとうに足し合わせるのです。
一光日離れたおとといと昨日の電子、一光年離れた一昨年と昨年の電子、
一光日離れた明日とあさっての電子、一光年離れた来年と再来年の電子などなど
あらゆる二時空点の間の電子が相互作用することによって、そしてその相互作用を過去から未来までの全時間と、宇宙のすみからすみまでの全空間にわたって足し合わせてあげると、いまここの電子の状態が決まるという構造になっています。
本当にそうなっていると経路積分では記述されます。
経路積分は最も精度が良い理論とされています。この理論を使って、水素原子のわずかなエネルギーのずれを計算してあげると10のマイナス20乗の精度で実験値と合うのです。このような精度の良い理論が、時空を全局的に足し合わせるといまこの場所の状態が決まるというつくりになっています。

鎌田茂雄の「華厳の思想」(講談社学術文庫)を読みました。
その中に出てきた、十世隔法異成門が秀逸でした。
過去と過去、過去と現在、過去と未来、
現在と過去、現在と現在、現在と未来、
未来と過去、未来と現在、未来と未来、
の九世とこれらの全てを含む一世とで十世。
過去、現在、未来の三世にとどめず、
それらの組み合わせの九世でも、とめず、
これらを全て含んだ一世を加えて十世とした、
華厳の時間感覚には、全く目を見張るばかりです。

時間は決して、過去から未来へ流れているのではありません。
一斉に現在が決まっているだけなのです。



2005/1/22 この一年を振り返って
ただただ華厳の宇宙観と、経路積分の記述とが、酷似している事に驚き、ホームページに記載を重ねてきました。
華厳の重々無尽は、経路積分のあらゆる時空が関係しあって、いまこの場所が現れる、
華厳の一即一切は、経路積分の時間の畳み込み、空間の畳み込み、
など、わたくしたちの住んでいる世界が、実はかなり驚愕の構造になっているのではないかということを最近は強く確信するようになって来ています。
一般的に考えられている時間や空間では、単純すぎるようです。
あらゆる時間と空間の状態を足し合わせる、重ね合わせる、畳み込むということをおこなって、はじめて現在が決まってくるのです。

数年前に、自分でいじくり回していた電磁場のエネルギーの式が、あらゆる二時空間の相互関係を全て足し合わせるとエネルギーになるということに気付きました。
その時は、世の中はおもしろい構造になっているな〜くらいにしか考えておりませんでしたが、その後、華厳経の存在を知って、おや?これは?という気持ちがふつふつと湧いて来まして、「現代物理のおかしさ」を書き、ホームページを立ち上げました。
そして、いろいろと調べているうちに、前出の電磁場のエネルギーの式がファインマンの経路積分に似ているなと思い始めたのが、一年くらい前です。
そして、今年の1月8,9,10日の三連休で、「物理法則はいかにして発見されたか」(岩波現代文庫、ファインマン著)の第二部、量子電磁力学に対する時空全局的観点の発展というところを読んで、経路積分に「似ている」のではなく、経路積分「そのもの」であることが分かりました。
これまでは、自分のいじくり回していた式が華厳経に似ているというだけで、もしかしたらただの自分の妄想かもしれないという迷いがありましたが、この本を読みまして、経路積分そのものが華厳経と実は酷似していたのだと言う事が確信的になりまして(経路積分でファインマンはノーベル賞をもらっています)、現代物理と華厳経の類似性をこれまで以上に強く訴えたい気持ちになっております。



2005/1/23 阿頼耶識と経路積分
唯識における阿頼耶識とファインマンの経路積分は概念としては全く同じものであることに気付きました。

「阿頼耶識とはサンスクリット語のアーラヤという言葉を音写したもので、漢訳すると蔵識といった意味になります。何を貯蔵するのかというと、自分が生まれてからこのかた、泣いたり笑ったり怒ったりしたすべての経験を貯蔵しているのが阿頼耶識であります。自分が生まれた以降ばかりではなく、自分の両親の経験、そのまた両親の経験というように遡ってゆくと、人類が発生して以来の全ての経験を蔵しているのです。人間ばかりではなく、人類になる以前であるとか、さらに遡って、アメーバ以来のすべての経験を蔵しているのであります。宇宙開闢以来のあらゆる経験を貯えているのが阿頼耶識なのであります。」−華厳の思想(鎌田茂雄著。講談社学術文庫)−より抜粋。

一方、ファインマンの経路積分でも、現在の波動関数には、粒子の過去の履歴(たどってきた経路や歴史、たどる可能性のあった経路や歴史)が全て畳み込まれております。この波動関数のことをファインマンは、宇宙の全ての歴史を含んでいる巨大な波動関数と呼んでおります。この波動関数は、過去の履歴を畳み込んだ形で単独の関数として表現されておりますので、宇宙の将来に対する全ての歴史の効果は、この単独の巨大な波動関数から計算されるのです。粒子についてある特定の時刻における波動関数以外のことを全部忘れても、その時刻以後に起こることを全て計算することができるのです。

「阿頼耶識は刹那滅であった。そこで、前刹那の阿頼耶識にあった種子(現行しなかったものや、新しく薫習された種子)は、次の刹那の阿頼耶識に、そっくり自分と同じものを引き渡すという。これを種子生種子という。こうして、一切の過去の経験がそのつどそのつどの現在に伝達されていくことになる。
そのときそのときの現在に成立したその人の一切の過去の形が、単にその人の一生のみでなく、無始より無終に相続する阿頼耶識を伝って、生死輪廻を通じて伝達されていくことになる。
この阿頼耶識が説かれることによって、無我なのに、しかも過去はもはや存在せず現在のみ実有なのに、特定の個人の行為の結果がその特定の個人に報われていくという、業の説明も可能となったのであった。」−インド仏教の歴史「覚り」と「空」(竹村牧男著。講談社学術文庫)−より抜粋。

特に、下の竹村牧男先生の表現は、ファインマンの経路積分と同じです。
阿頼耶識が刹那刹那にしか存在しないこと、しかし、そのつど現在に伝達されてゆくこと、過去は存在せず現在のみが実際には存在するのに、過去が現在の中に引き継がれていることなどは、 
経路積分で表わされる波動関数が、ある時刻時刻のそれぞれの伝播関数の畳み込み積であらわされ、波動関数としては現在のものしかないのにその波動関数の中に全ての過去の状態が伝播関数を通じて畳み込まれているということと全く同じです。

千年前の唯識論者は、量子論や場の量子論、経路積分量子化をあたかも知っていたような気さえします。



2005/2/20 阿頼耶識と虚空蔵(ある真言宗の僧侶の方との対話で気付いたこと)
阿頼耶識については、過去の経験が蓄積されているということは言っていても未来についての記述はないそうです。

経路積分におきましても、いわゆる「量子力学」を経路積分で表わすときは「過去」にたどってきた経路と歴史が畳み込まれるだけなのです(「ファインマンの経路積分」を参照)。
「場の量子論(第二量子化)」を経路積分で表わす時になって初めて過去に加えて「未来」も畳み込まれることになります(「時空全局的観点」や「物理法則はいかにして発見されたか」を参照)。

また、阿頼耶識の説明では、貯蔵されたものは「分節されたもの」であるそうです。
分節されたものは、刹那滅をすることになるそうです。
経路積分でも、時間を t と t+Δt というように細かく区切ってゆきまして、
t から t+Δt にいたる伝播関数を全ての時間について、畳み込みますと今の波動関数になります。

唯識の言葉で言えば、伝播関数は刹那滅ですが
伝播関数が畳み込まれた結果の波動関数は刹那滅ではありません。
一つの伝播関数自体は、t から t+Δt の間しか存在しないという意味で、刹那滅です。
この伝播関数を宇宙開闢時から現在まで畳み込んだものが量子力学の波動関数です。

伝播関数は分節されています。
その伝播関数に対して、「見る」などの行為を働きかけますと、そこから
パルス状の波(これが粒子)が顕現します。

唯識では八識(阿頼耶識)までですが、密教では更に九識(アマラ識)まであるそうです。
いまのところ物理のなかには、このように、八識に近い概念まではありますが、密教は更に奥が深いようです。

一方、虚空は一切のものを包み込んだ空間なのだそうです。また、作られたものではなく、無限に喩えられているそうです。

虚空の蔵においては、おそらく今私達がどのような行動をとろうとも無限の未来が記録されているということも言われているそうです。

「量子力学」の経路積分が、阿頼耶識、
「場の量子論(第二量子化)」の経路積分が、未来も含まれているという意味で、虚空蔵
に対応しているような感じがしております。



2005/4/15 遠離一切顛倒夢想
宗教書、ヒーリング、精神世界、癒しの本を読むよりも、私にとりましては、物理を考えることで、宇宙観が変わり、意識が変容し、人生を楽に生きられるようになりました。
人生の苦しみの原因の一つが、ニュートン力学的な宇宙観であると思っております。物があたかも存在するような宇宙観、原子や電子、原子核、素粒子といった要素還元主義的な宇宙観、そして、それら部分が集まって、全体ができているという宇宙観が、苦しみを作り出す一つの原因になっているかもしれません。
物という概念が存在してしまうためにそれに執着したり、部分部分に分かれている世界観のため、孤立感を持ってしまったり、あなたと私は別の人間と思ってしまうので、競争したりしてしまいます。
これらは、どうも顛倒夢想のようです。
この世は、ほとんど波動できているようですし、全体性や関係のほうがまず先にあって、部分は全体の中から現れているに過ぎないようです。現象すら波動の重ね合わせの結果、現れているに過ぎないようです。一瞬の中に永遠が存在し、この一点の中に全宇宙の状態が含まれているようです。時間は過去から未来へただ淡々と流れているわけでもないようです。
な〜んだ、宗教書やヒーリングの本で言っていることとほとんど変わらないじゃないかと言われてしまいそうですが、決定的に違うことがあります。現代物理はこれらのことを数式でしっかりと説明してくれるのです。シュレディンガーやハイゼンベルグの量子力学より後の1950年代に発展した現代物理です。数式には暴力的な説得力があるのです。
わたくしは、これらの数式によって説得されてしまい、肩から力が抜けました。



2005/4/15 場の量子論の無限大
世界の宗教の割合は、
キリスト教徒 33%
イスラム教徒 17%
ヒンズー教徒 13%
仏教徒     6%
こんな感じです。

       

場の量子論には無限大がいっぱい出てきます。
そして、現在の物理学の常識では、これらの無限大は、無限大の「困難」とか発散の「困難」と言われていて、「よろしくないもの」とされています。そしてこの困難を除くために、物理学者たちは、日夜頭を悩ませています。

もし、この世界の60%が仏教徒だったとしたら、場の量子論の無限大は、こんな風に教科書に紹介されていたかもしれません。
「場の量子論では、物理量を計算すると、当然の帰結として、これらは無限大になります。」と。

物理学を構築しているのは人間です。ですので、そのコンセプトのには、どうしてもその学問を構築した者達の「信条」が反映してしまうのは否めません。
物理学が構築される過程や、解釈される過程には、どうしてもその方たちの「信条」が反映されてしまいます。

現在、世界の3割がキリスト教徒です。恐らく名だたる物理学者たちの宗教構成を見てみても、この比率はそれほど変わらないでしょう。

私は宗教にそれほど明るくないので、あまり深いことを言及することは出来ないのですが、聖書や福音書を読んでみた感想では、神の奇跡などという言葉がこれらの書物にはたくさん出てくるという印象が強いです。ただ奇跡はいっぱい出てくるのですが、なぜこのような奇跡が起こりうるのかというところまでは、あまり触れられていないという印象も一方であるのです。つまり、現れてきた現象にのみスポットライトが当てられている感じが強いです。

これに比して、仏教では、なぜ現象が現れるのかといったことや、現れた現象の背後にある相互依存性といったところまで、結構考えているという感じが、経典を読むといたします。

「物」や「現象」が海から現れている「なみがしら」とすれば、「実在」はその配下に満ちている「海」ということになりましょうか。

「なみがしら」の体積を計算せよと言われても、どこからが「なみがしら」でどこからが「海」なのか分けることは出来ません。あえて言えば、「なみがしら」を含めた「海」から「なみがしら」をのぞいた「海」を引いたものが「なみがしら」です。
「なみがしら」を含めた「海」も無限大。
「なみがしら」をのぞいた「海」も無限大。
無限大から無限大を引いてみると、「なみがしら」という「物」が一応表現できるわけですね。



2005/4/15 現象の現れる仕組み
経路積分には、量子力学版と場の量子論版があるのですが、量子力学版では現象のたどる経路を、場の量子論版では場の変動を論じています。
実際に現れる現象のたどる経路や、実際に現れる場の変動がどのような仕組みで現れているかについて語っています。
これは、最小作用の原理にしたがって現れています。
量子力学版で説明いたしますと、点Aから点Bに至る一つの経路を決めてあげるとそれに対応する作用Sが一つ決まります。
この作用Sを位相(波が山になっているか、谷になっているかを示す数値)にもつ波を考えます(経路積分の中のexp(iS/h)がその波を表わしています。)
つまり、経路を一つ決めてあげると、それに対応する波が一つ決まります。
そして、点Aから点Bに至るあらゆる経路について、こうして作成した波をすべて足し合わせます。これが現象が点Aから点Bに至る確率振幅であるとするのが、ファインマンの経路積分量子化の考え方です。
経路を少し変化させてみたときには、作用がかなり変化する場合もありますし、また異なった経路の変化のさせ方をした時には、ほとんど作用が変化しないという場合もあります。
つまり、経路を少し変化させただけでも波の位相が大きく変化して位相が反転する(山と谷がひっくり返る)こともあれば、経路を少し変化させた時にはほとんど波の位相が変化しない(山は山のまま)ということもあります。経路を変化させてみたとき波の位相が大きく変わってしまう場合には、それらの波は弱めあってしまい、結果その経路を粒子がたどる確率はほとんどなくなってしまいます。これとは反対に、経路を少し変化させてみたときに、波の位相がほとんど変化しない時は、これらの波は強めあい、結果この近辺の経路を現象はたどることになります。
波の位相は作用でありましたから、作用が経路に対して極小値をとっていて、経路を変化させてみても作用がほとんど変化しない経路が、実際に現れる現象ということになります。
これを「最小作用の原理」と申しまして、背景の波の中から実際にどの現象が現れてくるかを決めている根本的な原理なのです。そしてこれこそがファインマンの経路積分量子化の真骨頂でありまして、量子論の意味していることを説明できた唯一の理論なのです。
現れた現象の背景には、作用を位相に持つ波が実は存在しているわけです。
これが、「この世は、ほとんど波動できているようですし、」の理由です。
「ほとんど」という言葉を添えた理由は、この波が確率の波なのか、それとも実体の波なのかという迷いが自分の中にあるからです。

量子力学版の時は、時間に対して変動する経路を考え、一つの経路に対して、一つの作用が決まり、その作用を位相とする一つの波が決まりました。それを全ての経路について足し合わせると実際に現象がたどる経路が決まりました。
場の量子論版の場合は、時空に対して変動する場を考え、一つの場の変動の仕方に対して、一つの作用が決まり、その作用を位相とする一つの波が決まります。それを全ての場の変動の仕方について足し合わせるということを行い、作用が最小になるところが、実際に現れる場の変動ということに拡張できます。
そして、場の量子論版でおもしろいのが、この作用なのです。
実際に現れる場の変動を決めている作用の式の形が、
∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')
というようなもので表わされるのです。
J(r,t)やJ(r',t')は源泉関数です。
(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)は伝播関数と呼ばれるものです。
つまり、2時空点間のJ(r,t)とJ(r',t')が伝播関数(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)を通じて相互作用をしています。
この相互作用をあらゆる時空点で全て足し合わせた(∫dr∫dt∫dr'∫dt')ものが作用であるという形になっているのです。
これが、「全体性や関係のほうがまず先にあって、・・・」の理由です。
現れた現象の背後には「相互依存性」があるわけです。



2005/4/16 ものの喩え(場の量子論版経路積分)
場の量子論の場合は、イメージがつかみづらいので、一つ喩え話をしてみましょう。
喩えはあまりよくないのですが、地球上で地震が発生した時の津波の様子を、場の変動と考えて、その津波の形状や時間発展の様子がどのように決まるかということで考えてみましょう。作用、
S=∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')
の中に出てくる
J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')
は、震源地で発生した津波のエネルギーが大洋を伝わって、被災地で吸収される過程を表しています。右から読むのですが、J(r',t')は震源地の振動、(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)は大洋を伝わる津波、J(r,t)は被災地で津波が吸収されるときに起こる破壊の振動を表わしています。地震が一ヶ所だけではなく、地球上のあらゆる場所で起きていると仮定しますと、ある被災地(例えば沖ノ鳥島)では、あらゆる震源地で発生した津波の影響をことごとく受け、傷跡が被災地に畳み込まれるということが起こります(華厳経で言うところの一即一切に相当(しかし、喩えが悪いため華厳の芳しさがまったくでないっ!))。ここまでが、
∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')・・・@
の式です。∫dr'∫dt'は地球上のあらゆる震源地の影響を足し合わせているという意味です。
被災地も沖ノ鳥島だけではないことは明らかで、地球上のあらゆる場所が被災地となりえますので、さらにあらゆる被災地でこの過程をたしあわせますと、∫dr∫dtが加わって、
∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')・・・A
という作用Sの式になります。つまりあらゆる震源地とあらゆる被災地とが相互に作用しているのです(華厳経で言うところの重々無尽に相当)。
震源地のマグニチュードを、チリ沖はマグニチュード8.0、ハワイ沖はマグニチュード7.5、フィリピン海溝はマグニチュード8.5、駿河湾はマグニチュード9.0・・・というように、一組決めてあげれば、それぞれの震源からの津波の形状や時間発展が決まり、結果、Aで表わされる作用がひとつの値に決まります。
その作用をもとに、この作用を指数関数の肩に乗せてあげて、
exp{(i/h)∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J(r',t')}
という波をつくります(この「波」は津波ではなく、経路積分で出てくる波です)。
チリ沖はマグニチュード5.0、ハワイ沖はマグニチュード9.5、フィリピン海溝はマグニチュード5.5、駿河湾はマグニチュード4.0・・・というように、震源地のマグニチュードの組み合わせを変えてあげると、先ほどとは異なる津波の形状や時間発展になりますから、また別の波
exp{(i/h)∫dr∫dt∫dr'∫dt'J' (r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J' (r',t')}
を作ることが出来ます。
これをあらゆる震源地のマグニチュードの組み合わせ、つまりそれによって発生する津波の形状や時間発展について、あらゆるパターンを足し合わせます。
∫DADφexp{(i/h)∫dr∫dt∫dr'∫dt'J' (r,t)(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)J' (r',t')}
ここが、経路積分のミソです。あらゆるパターンについて足すのです。例えばチリ沖のマグニチュードが100だった為あるときに成層圏まで達している津波も考えられますので、こういうパターンももれなく足し合わせます。∫DADφはあらゆる津波のパターンについて足し合わせるという意味です。
この足し合わせの結果、この波(経路積分の波であって津波ではない)が強めあうところが現象として実際に現れるものということになります。そのとき作用は極小値を取っており、その作用に対応するあらゆる震源地のマグニチュードの組み合わせが一意に決まり、それによって発生する津波の形状と時間発展がやはり一意に決まります。これが、実際に地球上に現象として現れる津波になるわけです。
作用が極小値でないところでは、チリ沖はマグニチュード100、ハワイ沖はマグニチュード0.01・・・などという、極端な可能性もないわけではないのです。このとき、津波はチリ沖で成層圏まで達しているかもしれません。そんな可能性もあるのですが、この可能性は経路積分の波を足し合わせた時に消えてしまうのです。

このように、現象が現れるまでには、一即一切、重々無尽の作用、その作用を位相とする波、さらに全てのパターンについての波の足し合わせ、というように、いくつかの背後の仕組みが存在しているわけです。

現象だけが全てでは決してないのです。

現れた現象は「色」、背後の仕組みが「空」なのでしょうか。

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。
度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。
空即是色。受想行識亦復如是・・・
・・・
無有恐怖。遠離一切顛倒夢想・・・
・・・



2005/4/17 仏教の目的と物理の目的
仏教の目的は、人生の苦しみを軽減させることのようです。
物理の目的は、自然の仕組みを解き明かすことです。
ですので、仏教の目的と物理の目的は異なります。
ただし、仏教では、人生の苦しみを軽減させる一つの手段が、人間の宇宙観を変容させることであると言っているようです。その代表例が般若心経の色即是空だと思っています。
宇宙観を変容させるためには、自然の仕組みを理解することが必要になります。
目的は違っているのですが、仏教と物理が目指している方向は、意外と一致しているのかもしれません。
つまり、仏教ベクトルと物理ベクトルのなす角度は意外と小さいと。。。



2005/5/3 波動性の中から現れる粒子性のイメージ
       

これは、ドニパドロ(シンギングボール)と呼ばれるチベット仏教の法具です。
ドニパドロに水を入れて、その縁をスティックでグルグルとこすってあげると、
ドニパドロの振動が、中に入っている水に共鳴し、水の表面には、非常に繊細な
波の定常波が発生します。
さらにドニパドロの縁をこすり続けますと、水の表面からは、非常にこまかい
たくさんの水の粒がものすごい勢いでシュパシュパと飛び出してきて飛散します。
その瞬間を写したのがこの写真です。少し見にくいですが、ドニパドロの右側や
手前の水の中から、こまかい水の粒が飛び出している様子が見て取れます。

波の振動がとても強めあったとき、そこからは粒が飛び出してくるのです。



2005/5/3 諦観
数式は、自然の仕組みを「表現する」のには、非常に優れた言語です。
しかし、これを皆さんに「お伝え」しようとした途端に、全く役に立たない言語になってしまいます。数式という言葉が、一般にはそれほど広まっていない言語だからです。
言葉で表わすにいたしましても数式で表わすにいたしましても世界観というものは、近似であると思っております。
もし本質というものがあると仮定してみた場合、それを数式も含めて言葉にしてしまった段階で、そこに単純化や既存概念への投影がどうしても入ってしまうからです。
私たちはその時代の近似的な世界観の中で生きていかざるをえないものと思っております。

仏教論理と物理につきましては、あるいは似ているだけかもしれません。
似て非なるものかもしれません。高僧が瞑想をしても修業をしても物理の数式が取り出せるわけではないので、似ているだけなのか同じなのかなど結局誰にも分からないわけですね。
ただ私の場合、経路積分の世界観が一般社会の通念とはかなり異なる概念でしたので、私自身もこの世界観をどう処理したらよいのかわからなかったというのが正直なところなのです。そんな時に出会ったのが華厳経の世界観でした。
そしてこれら二つが似たようなことを言っていた為、安心したのです。
安心したと同時に、驚きもし、またがっかりもしました。
どうして、このような世界観を数式も使わずに得られたのかという驚きと、実は瞑想や修行で得られる(のかもしれない)世界観を、数式などを使って20年も考え続けてきてしまったことに対する失望感でした。

私は実はとても猜疑心が強い人間です。ですので、子供の頃から理系の科目が好きで、大学でも理論物理を専攻しました。
そして当時は、自然科学こそ自然の本質を解き明かせる唯一の学問だと思っておりまして、仏教の事など全く考えたこともありませんでした。
量子論の世界ではある程度有名な先生に量子論を教わりましたが、その最初の講義で、あらゆる哲学のヒエラルヒーの頂点に「量子力学」と書いて「量子力学帝国主義」なる話を、その教授が力説していたことを今でも鮮明に覚えております。そして、私も少なくとも2年前までは仏教の「ぶ」の字も考えたことはありませんでした。
いじくり回していた光のエネルギーの式が、あらゆる二点間あらゆる二時刻間の相互関係によって成り立っている、それも宇宙の隅から隅まで、さらに宇宙開闢から未来永劫までこの相互関係を全て足し合わせるとエネルギーが求まるという構造になっているという事に気付きまして、この世はおもしろい構造になっているなあ〜と思っておりました。そんな折、
一昨年、NHKの教育テレビの「こころの時代」で東洋大学の竹村牧男先生が華厳経についてお話されているのをたまたま拝見しました。そのお話の中で、「全ては重々無尽の相互関係から成り立っている」という縁起の考え方や、「部分は全体を含んでいる、一瞬は永遠を含んでいる」といった一即一切の考え方が華厳経のなかにあるということを聞きまして、いじくり回しておりました電磁場のエネルギーの式ととても酷似している事に驚愕し、それから仏教の方にも興味を持ち始めました。
そして、仏教も実は侮れないのではと思い始めました。
侮れないどころか、過去の賢人たちは、何らかの方法で、宇宙の仕組みを知っていたのでは?とも思い始めました。そして、現代物理がその仕組みにやっと気付き始めただけのことではないかと。。。
そして、現代物理が気付き始めました構造とは、まさに一点の中に全ての宇宙の状態が含まれており、この瞬間の中に過去や未来や現在の状態が畳み込まれているという構造なのです。
そして、こんな構造だからこそ、自然科学などというぎょうぎょうしい手段を用いなくても、過去の賢人たちは宇宙の仕組みを知りえたのかもしれません。
例えば瞑想や荒行あるいは虚空蔵求聞持法などの方法を用いることによってです。
この全てが畳み込まれた状態に何らかの方法でコンタクトできるとすれば、その中からはあらゆる情報が取り出せることに原理的にはなるからです。

私、当年とって40歳。私が量子力学に出会ったのが二十歳の頃ですので、量子論をかれこれ20年も考えていることになります(笑)。
自分なりにたどり着いた宇宙観が、お経や精神世界の本で言っていることとほとんど変わらなかったということを今になって振り返ってみると、何かこの20年間を損した様な気さえします(笑)。



2005/5/21 人はなぜ「1/fゆらぎ」に癒されるのか?
「1/fゆらぎ」とは、小川のせせらぎ、そよ風、ホタルの光などに見られる心の安らぎを誘うリズムのことです。

物理的に言いますと、振動数の低い波をたくさん含み、振動数が高くなるにつれて含まれる波が減ってゆくというものです。 

光子を表わす波動方程式の伝播関数は、
(1/4π|r-r'|)δ((t-t')-|r-r'|/c)
ですが、この伝播関数のフーリエ変換後の周波数特性は、
P(1/(ω-kc))-iπδ(ω-kc)
です。これは、ゼロ割も含めた1/(ω-kc)を表しておりまして、つまり1/fの形になっています。

経路積分の中で中心的な役割を果たす伝播関数のフーリエ変換は、全て1/ωつまり1/fの形になっておりますので、光子や電子は、1/fゆらぎの波であると言えるわけです。

光と電子の相互作用を、時間空間側で記述すると伝播関数の畳み込み積になりますが(経路積分両界曼荼羅の胎蔵界曼荼羅を参照)、これをフーリエ変換した周波数空間側で見ると1/fの積の形に表すことができます(経路積分両界曼荼羅の金剛界曼荼羅を参照)。
これを視覚化して分かりやすくしたものが経路積分で出てくるファインマンダイアグラムです。
つまりファインマンダイアグラムは、簡単に言えば、1/f×1/f’×1/f”・・・を表しているといえます。

こう考えてみますと、自然は1/fゆらぎの波の綾なす世界ということになります。

私達も、電子や光子で出来ています。
そして、光と電子の相互作用は、私達の中でもたえず起こっている現象です。
私達の存在自体が電子や光子であり、光と電子の相互作用であるとすれば、私達が1/fのゆらぎで癒されるのは至極当然のことなのもしれません。

私達の存在自体が1/fゆらぎなのですから。





2005/6/12 経路積分とウィーナー積分
ポテンシャルV(x)の中を動いている質量mの粒子の経路積分は、
∫Dx exp[(i/h)∫((1/2)m(dx/dt)^2-V(x))dt]
と書けます。
この経路積分におきまして、it → u と変数変換いたしますと、
∫Dx exp[(-1/h)∫((1/2)m(dx/du)^2+V(x))du]
となりまして、虚数単位 i が式の表面から消えます。
そしてこれはなんとブラウン運動におけるウィーナー積分です!
そして、これは「速度を変数とするガウス関数」を重みとしてもつ経路の和を表わしています。つまり速度が正規分布になっています。
経路積分とウィーナー積分は、実はほとんど同じものだったのです。
そして、経路積分とウィーナー積分が実はとっても簡単な変数変換で強く結びついているのです。

それは、「時間を虚数時間に置き換える」ことなのです。
(虚数時間に関する形而上学的な思弁は(その誘惑は強いけれども)控えておこう。)

経路積分では、実際にたどる経路から離れたところでは確率振幅の位相が激しく振動するため足し合わせの結果、古典経路から離れたところでは可能性の波が相殺します。
これをウィーナー積分の言葉に置き換えますと、以下のようになります。
ウィーナー積分では、経路から離れたところでは、ガウス関数で表わされる重みがほとんどゼロであるため、古典経路から離れたところは、足し算に寄与しません。

量子力学は、シュレディンガー方程式でもハイゼンベルグ方程式でも表わせますが、ファインマンの経路積分でも表わせ更にウィーナー積分でも表すことが出来るわけです。

この世はなんと美しい作りになっているのでしょう。
そして、なんといろいろな表現方法があるのでしょう。



2005/6/12 ファインマン−カッツの公式と黒体輻射
「よくわかる量子力学(連続性と非連続性とをつなぐ伝播関数)」
の中の連続性と非連続性とをつなぐ式、
∫Dx exp(iS/h) = K(b,a) = Σφφ* exp(-iEnt/h)
からは、金融工学の世界でも有名になっているファインマン−カッツの公式が導出できますが、この式におきまして、it → u 更に、u → h/kT (kはボルツマン定数、Tは絶対温度) と置き換えますと、この式の最右辺は、
Σφφ* exp(-En/kT)
と変わりますので、ここから、
Σexp(-nhv/kT)
が推論され、黒体輻射の式に結びついてゆく可能性があります。



2005/6/19 経路積分とブラック−ショールズの式
経路積分で、it → u と変数変換した
K(b,a) = ∫Dx exp[(-1/h)∫((1/2)m(dx/du)^2+V(x))du]
におきまして、運動エネルギーの部分は
exp[(-1/h)∫((1/2)m(dx/du)^2)du] 
ですが、これは
exp[-m(凅)^2/2h冲]
を表わしており、これは正規分布関数(ガウス関数)です。
従いまして、経路積分 K(b,a) の意味するところは、
exp[(-1/h)∫V(x)du]
に正規分布関数
exp[-m(凅)^2/2h冲]
の重みをかけて、足し合わせたものということになります。
そしてこれは、確率論で言うところの期待値を求めていることに他なりません。
つまり期待値の記号 E[*] を使えば、
K(b,a) = E[ exp[(-1/h)∫V(x)du] ] 
と書くことが出来ます。
経路積分は、初期条件としてポテンシャルexp[(-1/h)∫V(x)du] を与えた時のウィーナー過程の期待値として、表現することが出来るのです。
ウィーナー過程と言うと難しくなってしまいますが、これはブラウン運動です。
もっと簡単に言えば、「酔っ払いの千鳥足」です。
経路積分は、「初期条件として赤提灯を出た酔っ払いが、その後にたどる道筋の期待値」として表わされているようなものです。酔っ払いは無事家にたどり着けるかもしれませんし、駅のベンチで朝を迎えるかもしれません。帰り道の途中に酒屋があれば、またそこに引き込まれる可能性もあります。
そして、
K(b,a) = E[ exp[(-1/h)∫V(x)du] ]
は、金融工学でも有名になってきているファインマン−カッツの公式です。
フィナンシャルテクノロジーの分野では、K(b,a)はオプション価格です。
そして、exp[(-1/h)∫V(x)du] のところには、オプション価格の初期条件が入ります。
例えば、ヨーロピアンコールオプションでは、
K(b,a) = E [ min ( K exp { log(x/K) + (r - (1/2)σ^2)t - σ√t R } - K , 0 ) ]
となります。そしてこれは、金融工学の分野では有名なブラック−ショールズの式に他なりません。ブラック−ショールズの偏微分方程式が、適当な変数変換を行うと、シュレディンガー方程式と同じ熱伝導方程式のタイプになることから考えると、これらの方程式の解がファインマン−カッツの公式で同じように表わせるのは、実は至極当たり前のことなのです。
こういうわけで、ファインマンの経路積分は現代物理ばかりか金融工学の基礎にもなっているのです。

おっと、話が横道にそれてしまいました。
このホームページは、現代物理と仏教を考えるページでしたね(笑)。



2005/7/1 質量とボラティリティーの不確定性関係
経路積分で、it → u と変数変換した
K(b,a) = ∫Dx exp[(-1/h)∫((1/2)m(dx/du)^2+V(x))du]
におきまして、運動エネルギーの部分
exp[-m(凅)^2/2h冲] ・・・ @
は、正規分布関数(ガウス関数)であることを前回お話しましたが、
ドリフト係数がμ、拡散係数がσ^2の確率過程は、標準ブラウン運動W(t)を用いると
dx = μdt + σdW(t)
と表すことが出来ます。その時の正規分布関数は、
1/√(2πσ^2t)exp[-x^2/2σ^2t] ・・・ A
でありますので、@とAの指数関数部分を比較してみますと、
m/h = 1/σ^2
つまり、
mσ^2 = h
の関係があることがわかります。
これは、質量とボラティリティーの不確定性関係の式であると読むことが出来ます。
質量が大きくなると、ボラティリティーは小さくなり、
質量が小さくなるに従って、ボラティリティーはどんどん大きくなってゆきます。
つまり、質量が大きい古典力学の世界では、粒子のたどる経路のボラティリティーが小さいため「軌道」がはっきりと見えるわけですが、質量が小さい量子力学の世界では、粒子のたどる経路のボラティリティーが大きいため、電子は雲のように拡散してしまい、どこを通っているのかよくわからなくなってしまいます。つまりはっきりとした「軌道」が定まらないということになります。
ボラティリティーσは、
σ = √(h/m)
ですので、私たちが質量と呼んでいるものは、「拡散しやすさ」を意味しているのかもしれません。質量が小さいと拡散しやすく、質量が大きくなると拡散しにくくなるわけです。
私たちの運動は、
dx = μdt + √(h/m)dW(t) ・・・ B 
という確率過程に従っているのかもしれません。
ここで、μは古典力学的な「速度」ですが、位置の変位 dx には、√(h/m)dW(t)で表わされる標準ブラウン運動項が実は付加されているのが、この世の実体のようです。
速度μを
μ = dx/dt
とするニュートン力学は、Bで表わされる確率過程のうち、右辺第二項の標準ブラウン運動項を無視した粗雑な近似だったというわけです。
私たちの日々の行動は、あまり確固としたものではなく、確率的にしか起こっていないのかもしれません。
また、高校の物理では「質量 m の云々」というように、あたかも「質量 m の粒子や物質」が存在するように教わりましたが、上で述べてきた議論がもし正しいとすれば、質量とは実はボラティリティーを表わす指標にすぎないことになりますので、「物」の存在もそれほど確固としたものではないのかもしれません。
そして、質量が小さくなれば小さくなるほど、ボラティリティーが大きくなり「ぼやけた」存在になってしまうわけですので、素粒子論などに代表される、ものを切り刻んで究極の物質を見つけようとする要素還元主義的なアプローチの仕方は、非常にナンセンスであるといわざるを得ないのではないでしょうか。



2005/7/3 波束の収縮と唯識
2重スリットの実験では、電子は、観測される前は、あらゆる空間に拡がっており、観測された瞬間に、スクリーン上に輝点として現れます。これは、いわゆる量子力学の波束の収縮です。
観測される前の波動は、あらゆる空間に拡がっていますので、すなわちボラティリティーの大きい状態です。
一方、観測された瞬間に波束は一点に収縮しますので、これはボラティリティーが急激に小さくなることを意味します。
前回、ボラティリティーが大きい時は質量が小さく、ボラティリティーが小さくなると質量は大きくなるというお話をしました。
これを、波束の収縮に当てはめて考えて見ますと、観測することによって、電子あるいは電子の質量はそこに「発見される」わけではなく、そこに「生成される」と考えることは出来ないでしょうか。小さかった質量が大きくなるわけですから。
観測前後で、同じ質量の電子があるわけではなく、観測することによって、そこに質量が生成され電子がまさにそこに現出する(創り出される)わけです。
コペンハーゲン流の確率解釈では、観測される前の電子も、存在としては「ある」わけです。ただ確率として、どこにいるのかわからないと解釈します。
しかし、ボラティリティーと質量の関係で考えて見ますと、観測される前の電子は、存在としては非常に薄いものと考えられます。しかし観測することによって、質量が生成され、存在としてしっかりしてくるわけです。

「見る」という行為は、ただ単にすでに存在するものを認識するという行為ではなく、それによって、そこに物や現象を創出する行為であるということが出来る可能性の萌芽がここにあります。

これが、「一切は心の働きが創り出す」と言う、華厳の唯識との関係なのでしょうか?



2005/7/24 虚数時間が気になります。
ある意味、虚数時間は実時間に垂直な方向の時間です。虚数時間で考えると量子論は収束しやすくなります。つまり性質がよくなります。シュレディンガー方程式は時間を虚数にすると拡散方程式になります。量子論のイメージを最も分かりやすく定式化したファインマンの経路積分は、時間を虚数にすると、ブラウン運動のウィーナー過程になります。
実時間内で激しく振動する波動は、虚数時間内ではおだやかな正規分布になってしまいます。
ある意味、量子力学とは、虚数時間内の拡散過程なのです。



2005/7/24 微分的な見方と積分的な見方
未来も過去も可能性に満ち満ちているかもしれません。
過去も可能性に満ち満ちている?
というと、通常の常識に矛盾するので、時間の右側も左側も可能性に満ち満ちていると言い換えましょう。
そしてこれらの可能性が、すべてお互いに関係しあっており、この関係に働きかけることによって顕現した現象が私たちの体験なのかもしれません。
働きかけ方によって、現れる現象も異なりますので、体験も変わります。
そしてその刹那刹那の連続を、時間の流れと感じているだけなのかもしれません。

私たちは現れた現象にのみ着目しがちですので、その現象の時間変化を追いかけることに慣れています。いわば微分的なものの見方です。そしてこの習慣が「過去」や「未来」という概念を作り出したのかもしれません。
しかしこのような見方は表面的な見方であるようでありまして、実はあらゆる時刻における、可能性の相互関係を、すべて足し合わせるという積分的なものの見方が必要なようです。
そしてこの足し合わせの結果、可能性が強めあったところが現象として残るという仕組みが、背後には存在するようです。
しかしこの背後の仕組みは残念ながら体験することは出来ず、体験できるのは、ただ現れた現象のみです。

可能性の相互関係をすべて足し合わせるところを、物理では経歴総和法と呼んでおり、可能性が強めあったところが現象として残るのは、最小作用の原理というものに従っております。

そしてこれらは、仏教の「縁起」や「唯識」と通じているのかもしれないと私は考えております。 



2005/7/24 虚数時間と時間の矢
私の興味の一つに、「先進波」(未来から過去に逆行する波)の存在が本当にあるのかどうかという事があります。ファインマンとその先生のホイーラーは、「遅延波」(過去から未来へ順行する波)しか観測されない理由を「遅延波」と「先進波」を半々で足し合わせることに求めていた時期が一時あったようです。私もものの本で読んだ知識しかないので、その正否は判断できないのですが、「遅延波」と「先進波」を50%ずつ足し合わせると、「先進波」は弱めあって消え、「遅延波」は強め合って、結果「遅延波」のみが観測されるという論文を彼らが書いているということを、読んだことがあります(ただファインマンが積極的に「先進波」を取り入れようとした姿勢が当時の物理学会の中で受け入れられたかというと必ずしもそうではなかったようです。)。私は何かの啓蒙書に書いてあったのを読んだわけですが、そのときの印象では、すべての波を反射する球体の中でという境界条件を設けていたような記憶がありますが、その境界条件が強すぎるなと思った記憶があります。私は猜疑心が強い人間なので、自分で式を導いてみるか、丁寧に順を追って導かれた式を読むかでないと、基本的には信じないことにしています。従いまして、この「遅延波」と「先進波」の話は、何かの啓蒙書で読んだ知識、つまり二次情報ですので、腑に落ちていないというのが正直なところです。
(こんなことだから20年考えてもまだ不思議なことだらけなのです(笑))
時間を逆行する「素粒子」は、時間を順行する「反素粒子」と全く同等ですので、時間の逆行を否定(つまり「先進波」を否定)すると反素粒子の存在が必須になります。逆に反素粒子の存在を否定すると、時間の逆行を認めざるを得なくなります。

場の量子論に出てくる波動関数は、まさに「先進波」と「遅延波」を半分ずつ足し合わせるという事をやっているにもかかわらず、「先進波」は観測されません。実に不思議です。
あるいは、現代物理がこの程度の道具立てしかまだ持っていないということかもしれません。

ニュートン力学が、量子力学に飲み込まれてしまったように、この経路積分の考え方も、次の時代の新しい物理学に飲み込まれてしまう運命なのかもしれませんが、時間について考えることは本当に楽しいです。(ただし経路積分の考え方は、現在人間が持っている最も切れ味の良い理論の一つであることを付け加えておきます。)

ファインマンは1941年に書いた論文の中で、
「著者らはすべての物理的現象は微視的に可逆であり、それゆえ一見不可逆な現象はただ巨視的に不可逆であるにすぎないと信じる。」といっていますが、「信じる」などといっているように彼の思い込みなのかもしれません。ただ、微視的に可逆で巨視的には不可逆な理由がどこかにあるかもしれないという興味は大変あります。

実は私たちは虚数時間の中に住んでいるのではないかと考えたりもします。経路積分で時間を虚数にして見ますと、量子力学はただの拡散過程になります。拡散過程→エントロピーの増大→時間の不可逆性・・・などという妄想をしてみたりもします。実時間で考えたとき、時間は可逆だが、虚数時間で考えると、時間は不可逆になる・・・
そして、虚数時間で捕らえなければならない理由は、私たちの日常のスピードが光速に比べて極端に小さいからであると・・・。
すいません、少し飛ばしすぎました。



2005/8/20 「ファインマンさん最後の授業」より
「人間は、自分のために、自分に一番合ったかたちの、単純で理解可能な世界を描き出す・・・・・・そうやって、世界を克服するのだ・・・・・・人間は、自分の感情の軸が平安で穏やかに保たれるように、宇宙や、その構造を考える。しかし、そんな平安や穏やかさは、現実の体験では得られないものなのだ」(アルバート・アインシュタイン)

「ひも理論では、僕たちは十次元の世界に生きている。十次元を必要とする理論が、理にかなってると思うか? ノーだ。そんな次元が見えるのか? ノーだ。ちっちゃな球か円筒状に巻き上げられてて、探せもしないほど小さいって言うんだろ? ひも理論から出てくる予想なんて、観測とは、しょせん合わないんだから、なんとか言い逃れしなくてはならない、というぐらいのもんじゃないか」(リチャード・ファインマン)

「電子や陽子などの普通の素粒子さえ、「観察」されたことにはなっているが、実際は、フィルムの上にできた通り道の跡や、ガイガー計数管が反応する音という状況的な証拠でしか観察されていない。」(レナード・ムロディナウ(「ファインマンさん最後の授業」の著者))

「こんな話をしようか。僕が十三歳の時だ。アーリーンという少女に出会った。僕に初めてできたガールフレンドだ。何年も一緒にいたけど、最初のうちは別に本気じゃなかった。そして、だんだん本気になっていった。恋におちたのさ。僕が十九歳の時に婚約して、二十六歳で結婚した。アーリーンを心から愛していた。二人で一緒に成長したようなものだ。僕は、自分の視点や、合理的な考え方を教えて、アーリーンを変えた。そして、アーリーンも僕を変えた。いろいろと助けてもらったよ。彼女は、人は理性をなくしたほうがいい時もある、と教えてくれた。・・・・・・
女性には、うんと影響を受けている。今こうして僕がマシな人間でいられるのは、女の人のおかげなんだよ。人生の感情的な部分を教えてもらった。そういう部分も、とても大切だと気付かされたんだ。・・・・・・
アーリーンといると、楽しかった。最初の数年間は、ほんとに幸せな結婚生活だった。アーリーンが結核で亡くなるまではね。結婚する時から、妻が結核なのは分かっていた。僕の友達は、口を揃えて言ったもんだよ。「結婚するなよ。あの娘は結核なんだぞ」でも、しなくちゃいけなくて、結婚したわけじゃない。義務感から結婚したわけでもないんだよ。アーリーンを愛していたから、結婚したんだ。・・・・・・
アーリーンが亡くなった時も、僕は腹を立てたりはしなかった。だって、誰に腹を立てればいいんだ? 神様に腹を立てようにも、僕はいまだに神様を信じていないからね。・・・・・・
自分が天国に行くのか、地獄に落ちるのか、なんて心配もしてないよ。僕の持論なんだけど、信じられるのは科学によるものだけだ。科学的な発見を信じてるから、自分自身についても一貫した観点を持っていられるんだ。今、こうして入院したりして、あとどれくらい生きられるか分からない。でも、遅かれ早かれ、誰にでも起こることだしね。みんな、いつかは死ぬんだから。ただ、それがいつかっていうだけさ。とにかく、僕はアーリーンといられて、ほんとに幸せだった。だから、もう充分なんだよ。アーリーンを亡くした後の僕の人生は、そんなにうまくいく必要もなかった。だって、もう充分に幸せを味わってきたんだから。」(晩年のリチャード・ファインマン)

アーリーンが結核でこの世を去ったのは1945年6月16日、ファインマン27歳の時である。



2005/9/17 部分のないものを想定する誤謬
「ダライ・ラマの仏教入門」(ダライ・ラマ十四世著、光文社)を読みました。
仏教では、キリスト教的な創造主としての神は求めておらず、自然現象を貫き決定する究極の原理・真理を求めるという姿勢が仏教思想の中には見え隠れしています。

「ものには必ず部分がある。よって、どんどん分割してゆけば、究極の構成要素を見つけることができる」
というのが、現代物理のメジャーな思考です。これは、西洋的唯物的思考、あるいは要素還元主義的な思考でして、個人的にはあまり好きではない思考です。

仏教では以下のように考えているようです。
「ものには必ず部分がある。よって素粒子などという究極の構成要素は存在しない。」
なぜなら、
@もし究極の構成要素が存在すれば、それには部分がない。もし究極の構成要素に部分があるのならば、それは更に分割可能となり、究極の構成要素にはなり得ないからである。
A究極の構成要素には部分がないので、大きさがない。従って、究極の構成要素をいくらかき集めてみても、何ものも作ることが出来ない。大きさがないものをいくら集めてみてもそれ以上大きくならないからである。
Bよって、究極の構成要素は存在しない。

こんな考え方が仏教の中にあることは、おもしろいです。



2005/9/17 経路積分三部作
「ファインマン経路積分と量子力学」(R.P.ファインマン、A.R.ヒッブス著、マグロウヒル)
「ファインマン経路積分」(L.S.シュルマン著、講談社サイエンティフィック)
「経路積分と量子電磁力学」(杉田勝実、岡本良夫、関根松夫著、北森出版)

この三冊は、わたくしのバイブルです。
聖書や福音書、どんな仏教書を読むよりも、心が癒される三冊です(笑)。
この宇宙の構造が、たいへん美しく調和がとれたもので、ほとんど伝播関数だけでできているといってもいいことがよみとれます。伝播関数とは波動の伝播を表わすものです。
光などのボゾンは、波動方程式やKlein-Gordon方程式の伝播関数で表わされ、電子などのフェルミオンはディラック方程式の伝播関数で表わされます。
素粒子論では、ボゾンは力を伝える粒子、フェルミオンは物質粒子とされていますが、経路積分ではどちらも
exp{(i/h)∫dr∫dt∫dr'∫dt'J(r,t)G(r-r',t-t')J(r',t')}
のように書くことができます。
源泉J(r',t')が伝播関数G(r-r',t-t')によって伝えられ時空点(r,t)に畳み込まれる。そしてその時空点でJ(r,t)と相互作用をする。この相互作用をあらゆるニ時空点間で足し合わせたものを位相とする波動として経路積分は記述されます。
ここに出てくる伝播関数G(r-r',t-t')が、光の伝播や電子の伝播を表わしています。
光のみならず、電子などといわれているあらゆる物質も、そもそものはじめから全物質界を包み込んでいる、そんな構造にこの宇宙はなっています。
この世界は部品からできている、という機械論的な宇宙観ではもはやないのです。あらゆる時空間における関係や小時空領域への全時空の畳み込みといった、調和のとれた美しい構造にこの宇宙はなっているのです。





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