曽我逸郎さんとの対話

曽我逸郎さんは、釈尊の教えを現代風にわかりやすく解説した
「あたりまえのことを方便とする般若経」などを掲載したHPを運営されています。

曽我逸郎さんのHPはこちらです。
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/index.html

2004/6/19 曽我逸郎さんへのメール「現代物理と仏教」
はじめまして。
「現代物理」と「華厳経」というキーワードで検索いたしましたところ、
曽我さんのホームページを見つけました。

Pannyadhikaさんと曽我さんの対話の中で、
「最近の量子論を読めば、「過去と現在と未来の時間は、<現在の一点>に
たたみ込まれているのだ」、と書かれています」
という部分に目が留まりました。

私は、物理を考え続けておりますものですが、
考えていた光のエネルギーの式の中にあらわれる時間と空間の
畳み込み積という概念が、たまたま昨年の4月に見たNHKのこころの時代で
放送していた華厳経の考え方に酷似している事に驚愕し、それから仏教の方にも
興味を持ち始めました。

確かに、現代の量子論におけるファインマンの経路積分という方法によると、
今の中には、過去、現在、未来が畳み込まれており、この場所には全空間が
畳み込まれているということが起こっております。

もしよろしければ、私のホームページをご覧ください。
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123

突然のメールで、失礼いたしました。



2004/6/23 曽我逸郎さんからのご返事とご質問
拝啓

 メールを頂きありがとうございます。

 ホームページ拝見しました。

 えーと、数学は、数T、数UBは結構得意で、好きでもあったのですが、受験以来
トンと御無沙汰で、そこからさらにどんどん退化してしまっており、申し訳ありませ
んが肝心の数式は全部パスさせて頂き、日本語だけ読みました。

 そんなありさまですので、どれだけ理解できているのか甚だ心許ないのですが、物
理学の深い洞察から仏教までも視野に入れて考えておられる深さと広さと柔軟性に
感服いたしました。

 中で、

 >自分だけの過去が原因で、今の自分があるのではなく、世界中の人々の過去、
そして宇宙全体の過去の影響を受けて今の私があることになります。
 >そして、今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える原因となっています。
 >私だけの未来を変えるのではなく、世界中の人々の未来、そして宇宙全体の
未来を変える原因となっていることになるのです。

 と書いておられるのは、まさに縁起のことだと思いました。

 一方、現代物理学と符丁する(or 現代物理学の一歩先を行く?)世界理解の代表
として、華厳経をとらえておられると読みました。
 釈尊の教えこそが仏教だと考える私の立場からすると、華厳には釈尊の教えと
重なり合わない部分が結構あると思っています。釈尊は、執着によって苦を
作っている私達のあり方に集中して関心を向けられ、世界全体のあり方には
ほとんど関心を向けられなかったように思います。もっと言うと、そのような関心を
持つことを禁じておられました(無記)。対して、華厳は、宇宙のあり方にこだわり、
多くを語っているように感じます。苦の生産の停止についてはともかくとして、
世界理解、世界を説明するモデルの構築については、華厳は釈尊より進んだの
かもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 いくつか質問させて頂いてもいいでしょうか? 物質化・粒子化して捉える悪癖の
見本になるかもしれませんが、笑いながら教えていただければ幸甚です。

 1)私は、縁起は、時間的にも空間的にも接している所で起こる、と考えていま
す。例えば、テレビの生中継で遠くの出来事を知って、何か考えたり、気持ちが動い
たとしても、遠くの出来事が直接働いたのではなくて、その間には、カメラマンとか
中継電波とかさまざまの現象が媒介していて、私に直接届く縁は、ブラウン管から発
射された「光子」とスピーカーによる空気の振動である、と考えています。ドミノ倒
しに喩えれば、全部の駒が一斉に私を倒すのではなく、最後の一駒が私を倒す、
と考えます。(この考えを自分にもあてはめれば、私という現象は、無数の現象
〈例えばレチナールとか、シナプスでの興奮伝達物質とかの反応〉の連鎖・積み
重なり〈内なるドミノ倒し〉ということにもなります。)
 しかし、物理学的には、空間的・時間的な世界の全体が、(宇宙のかなたも、遠い
過去や未来も、)直接に一挙に(?)局在化の点に収縮する、と考えるべきなので
しょうか?
 自分でも分かったという自信はまるでありませんが、こういうイメージなのでしょ
うか? 宇宙全体に広がるさざめく風呂敷のような波紋が何枚もあって、それが重ね
合わさり、突出した波形が出来たところが個物と呼ばれる現象に収縮する? 
全然違いますか?
 風呂敷全体が揺らめいて世界は変化するのであって、個物の変化が隣の個物を
変化させるのではない?

 2)「顕前秩序」と「内蔵秩序」のお話は、最初「顕前秩序」=現象世界、「内蔵
秩序」=真如 or 梵、みたいな解釈に繋がりそうで、やばいなぁと感じましたが、
「内蔵秩序」が本源として先にあるということではなく、「顕前秩序」(現象世界)
が先にあって、それを局在の点において観察し、「包み込む」ことによって=「内蔵
秩序」が生まれる、という話であると読みましたが、それでいいでしょうか?
 つまり、「内蔵秩序」が本源として「顕前秩序」を生むという宇宙生成の説明では
なく、一個の点に過ぎない我々人間にどうして大宇宙を観察することができるのか、
という説明であろうと思いましたが、いかがでしょうか?

 3)物理学的には空間的にも時間的にもあらゆる現象が一瞬の一点に包み込まれ
ている、といった主旨が述べられていたと思いますが(自分の読みに自信がない)、
この場合の未来は、ひとつの決まった未来を考えているのでしょうか? つまり、
運命論的決定論的なたったひとつの未来が想定されているのでしょうか? 
「今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える」と言っておられるので、おそらく
そうではないと想像するのですが、もしそうなら、可能性のあるすべての未来が
たたみこまれているのでしょうか? 逆に、過去は、今に至る只ひとつの過去が
たたみこまれているのでしょうか。それとも、実現しなかったけれど可能性のあった
すべての過去(あるいは分裂してそれぞれにばらばらに実現されたすべての過去)
が収縮しているのでしょうか? 数式の意味するところは、どうなんでしょう?

 3)光の波とは異なり、時間の経過と共に物の波束の形状は崩れてしまう、物の波
は一時的であり、諸行無常である、とありました。まったく納得です。ただ、ぜんぜ
ん仏教的ではなく、物理学的でもない質問ですが、物の波の寿命はどれくらいなので
しょう? 物をどんどん細かく分けて行くと、波の性質が顕著になり、非常に不安定
な刹那滅的な振る舞いを示す、というのは聞いています。しかし、そのような素粒子
も適切に組み合わさることによって、陽子、中性子となり、さらに原子、分子とマク
ロ的になると、ずいぶん安定的になるのではないか、と思っています。なぜこんな質
問をするかと言うと、Pannyadhikaさんが「目の前の机が刹那毎に生滅を繰り返して
いる」と仰るのに対して、私は、「机もつきつめれば波であり、現象ではあるけれ
ど、机としてはマクロな物であり、比較的安定しており、刻々と壊れつつあるけれ
ど、そのテンポは割合と緩慢なのではないか、と思うからです。マクロな物につい
て、物理学的には、刹那毎に生滅を繰り返していると考えるのか、緩慢に崩壊し
つつあると考えるのか、どちらが適切でしょうか?

 4)「(華厳経は)一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真
の実在であると説く」と「華厳唯心偈」のパンフレットを紹介しておられ、またこれ
に共感しておられるように感じました。
 時々私は、「唯物論的だ!」と非難されることがあり、自分では「違う!唯現象論
と呼んでくれ!」と答えたいのですが、心的現象は、肉体的現象(色身の現象)に縁
起して、色身において起こっている現象だと考えています。つまり、心的現象より、
肉体的現象のほうがより根本であり、個体発生的にも系統発生的にも、肉体的
現象は心的現象に先立つ、と考えています。(勿論、心的現象が一旦発生すれば、
それから肉体的現象へ縁起することもありますが、、。<例えば、病は気から>)
 岸さんは、私の考えは誤りであり、心こそがあらゆるものの根源で、真の実在であ
ると考えておられますか? もしそうだとすると、心は、エネルギーでしょうか、波
でしょうか、それとも、、? 心からマクロな物質が生まれてくるとすると、その仕
組みは?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 軽い感想のつもりが、疑問を書き始めると、どんどん新たな疑問が湧いてきまし
た。無知な素人の、常識に捕われた愚かな考えとお笑い下さい。できますれば、
捕われを粉砕するヒントなり御提供頂ければ、と思います。

 常識に凝り固まった見方を訂正するのは、骨の折れる作業で時間もかかります。
仏教という根本的変革に加えて、現代物理学の説く根本変革にまで首を突っ込もう
とするのは、無謀なことかもしれません。ですが、おそらく岸さんもお考えのとおり、
両者は直結していなくとも、両方参照することで新しい気づきの契機になりそうな
気がします。私としては、仏教を考えるヒントとして、物理学も時々覗かせていただ
こうと思っています。

 お仕事ご多忙のこととは存じますが、今後もたまに馬鹿げたメールをお送りするこ
とがあるかもしれません。お時間の許す範囲で、何卒宜しく御教授頂ければ幸いで
す。

                                 敬具
岸 善生様
      2004、6、23、
                                曽我逸郎

**** あたりまえのことを方便とする般若経 ****
        www.dia.janis.or.jp/~soga/
  釈尊の教えを考えるサイトです。御批判下さい。



2004/6/24 曽我逸郎さんへの回答
曽我様。

なんのなんの、大変深く読み込んでいただいたように思っておりまして、
感激いたしております。
私のホームページに対して、このように真剣に質問をしてくださった方は
初めてです。

1)ご指摘の通り、粒子化の過程では接するということが非常に重要
だと思っております。
光のエネルギーの式に現れる波にしても、相対論的粒子の
エネルギーの式に現れる波にしても、接する直前までは、
球面状に広がった波なのですが、接したその瞬間に、突出した波形の
衝撃波に変化し、それを私たちは粒子であると感じていると思っております。
突出した波に変化するきっかけが接すること(例えば、光の波とレチナールが)
であり、もう少しいえば、接した点における波の時間変化(時間微分)を
感じていると思っております。
接する直前の球面状に広がった波は、ポテンシャルの次元を持っておりますが
それを時間で微分すると単位電荷に働く力(電場)の次元になります。
つまり、ポテンシャルが球面状に広がり、接する事によって、突出した波形の
衝撃力に変化するのです。これを粒子と呼んでいるのではないかと思っています。
順番に申し上げますと、まず波源から球面状の波がやってきます。
球面状の波を時間微分すると、中間段階として曽我さんのおっしゃる宇宙全体に
広がるさざめく風呂敷のような波(平面波)になります。これが重なり合い、
位相がそろっていて波が強めあう部分が、粒子(個物)であるとわたしも考えており
ます。
そして波が強めあう部分は、まさに「接している所」なのであります。

2)「顕現秩序」が現象、「内蔵秩序」が可能性(ポテンシャル)の波というイメー
ジでいます。
真如や梵というのはまだ私はよく分からないのですが、この可能性の波は、
虚空蔵のようなイメージがあります。この内蔵秩序にはあらゆる可能性が
包み込まれていて、持ち合わせているエネルギーによって、さまざまな現象が
取り出せるといったイメージです。

3)はい、物理的にはあらゆる空間とあらゆる時間の状態がこの一点この瞬間に
包み込まれております。そして、事象として実際に起こった過去のみならず、
可能性として起こるはずであった過去全てが包み込まれています。
この包み込みというのは、いろいろな可能性の波を全空間と全時間で足し合わせる
というものですが、波の位相によって、強めあう事に寄与している波(状態)と、
弱めあう事に寄与する波(状態)があります。この強めあうことに寄与している状態
があらゆる可能性の中から実際に現れた事象です。実際には現れなかった事象も
存在しなかったわけではなく、弱めあってしまった結果、顕現しなかっただけ
ということになります。
未来も同様です。可能性のあるあらゆる未来が包み込まれています。
今というこの瞬間のエネルギーの持ち方によって、可能性の波の位相が変わり、
未来に現れてくる状態に大きく影響します。

3)マクロな物の寿命は、おっしゃるとおり長いです。1グラムの物体では、実際に
波として崩れるまでになんと10の15乗年という長い時間がかかります。
常に生成や消滅を繰り返しているのはミクロな世界においての話になります。
これは、物理定数のプランク定数が10のマイナス27乗という非常に小さな値の
ためマクロな世界では波動性が隠れてしまっているからです。
でも机はやはり波なのです。机を押すと反発してくるのは、狭いところに閉じ込め
られた波は運動量が大きくなるという、波の不確定性原理によって起こっている
事象です。その大きくなった運動量を机からの抗力として私たちは感じているの
です。

4)正直申しまして、こころとは何なのか私はまだよく分かりません。
ただ、この世界を構成している根源は波動であり、これが可能性の波であり、
その波に「働きかけること」によって、現象が創り出されていると考えています。
「働きかける」とは「接する」といってもよいでしょう。
量子力学(ファインマンの経路積分)の世界が、華厳の世界に似ていたので
唯識に言及していますが、これは若干飛躍しすぎているかもしれませんね。
こころが現象を作り出している、とまでは物理では言えていません。
こころが何かはまだよく分かりませんが、可能性の波から現象が現れる時、
どの現象が現れるのかを決めているのが、エネルギーや運動量です。
エネルギーや運動量が、波の位相のパラメーターになっておりまして、この波の
位相を空間や時間の方向に少し変化させてみても、あまり位相が変わらない
ところ(位相が極小値を取っているところ)が、強めあい、実際の現象として
現れてくる所なのです。
意識もエネルギーなのでしょうか?

わたくし、頭の中がよく整理できていないところも多く、かなり思いついたままに
ホームページに記事を追加してきました。
このように質問を受けてみると、最初の頃に書いたことと、後で書いたこととの
間に一貫性がない部分もあることに気付かされ、大変勉強になります。

私の感想では、自然科学がやっと仏教に近付いてきたという思いがあり、このように
仏教を研究されている方と対話できることがとてもうれしく思っております。

これからも、気軽にお話できればと思っております。



2004/7/31 曽我逸郎さんへのメール「縁起=決定論?について」
曽我さん、こんにちは岸です。

ホームページ楽しみに拝見させていただいております。
最近、決定論について議論がされているので、量子論の立場では
どうなのかを考えて見ました。

量子論では、三重の意味で、非決定論です。
予測できるのは、現象そのものではなく、可能性だけであること
が、第一の非決定論的なところです。
ニュートン力学では、物を投げれば、物がどのように飛んでゆくかを
確実に予測できますが、量子論では、どこに飛んでゆく確率が高いか
低いかだけしか予測できません。
第二に、この確率が、波動性を持つため、不確定性原理が成り立ってしまうので、
位置を正確に決めようとすれば、速度が不正確になり、
エネルギーを正確に決めようとすると、時間が不正確になってきます。
これは、波のフーリエ変換の性質です。位置と速度、エネルギーと時間が、
それぞれフーリエ変換で結ばれていることが原因です。
第三に、現象は、「起きている」ものでなく「起こす」ものということです。
確率の波に私たちがどのように働きかけるかによって、起こる現象が
変わってきます。同じ、確率の波が存在していたとしても、我々の働きかけ方
によって、違う現象が起こってきます。観測対象と観測者のその時のエネルギー
の状態によって、確率の波の位相が変わり、波が強めあったり弱めあったりした
結果、強めあったところだけが現象として残ります(現われます)が、波の位相に
エネルギーがパラメーターとして含まれているため、その時のエネルギーの状態
によって、波の強めあい方が変わってくるからです。
つまり、現象は「決まっている」ものではなく「決める」ものなのです。

未来や過去は一意に決まっているかということに関しましても、
今この瞬間には全ての過去の起こり得た状態(可能性)が畳み込まれていますが、
一瞬前の過去にも、それ以前の起こり得た全ての過去が畳み込まれている
ということが起こっております。
また一瞬先の未来にも、今起こり得る可能性が全て畳み込まれてゆくというのが
この世のつくりのようですので、時間につきましても、このようにあらゆる可能性の
絡み合い(これが縁起というものでしょうか)になっているようです。

この可能性の絡み合いに、働きかける(接する)ことによって、ある現象が起こって
きますので、働きかけ方、接し方によって、現象は大きく変わってくるのです。

曽我さんの、ホームページ運営には、頭が下がります。
これからも、楽な気持ちで生きられるよい世の中になるよう、運営方、宜しくお願い
します。



2004/8/3 曽我逸郎さんからのご返事とご質問「我々の脳で不確定性原理は、、」
拝啓

 メールありがとうございます。まさに岸さんにお尋ねしようと思っていた矢先に頂
戴しました。

 私達が、なにかすること、しないことで、現象は大きく変化し、未来の現れ方も大
きく変わるということですね。そして、その変化は、非決定論的なので、しばしば思
いがけない結果となり、私達はあわてふためくことになる。

 岸さんのホームページに私の質問を掲載して頂いているのにも気づきました。よく
分かっていない素人の質問でお恥ずかしいのですが、光栄です。ありがとうございま
す。

 実は、不確定性原理や観測問題についてあれこれ書きかけたのですが、案の定、
収拾がつかなくなってしまい、ギブアップしました。あまり戦線を拡大せず、当面の
課題に集中したほうがよさそうです。

 当面の課題とは、修和さんから頂いた「無我=縁起は決定論であり、無我=縁起で
あれば主体的努力は不可能ではないか」という御意見にきちんと答えることです。

 で、そのためにアドバイスを頂ければありがたいのですが、我々の内部でも、不確
定性原理は働いているのでしょうか? 特に、脳の神経細胞の興奮の伝わり方に、
どういう影響をもたらしているのでしょうか? シナプスでの伝達物質の放出とか
受容体との結合とかが、不確定性原理によって非決定論的になるということは
ありますか? たぶん不確定性原理は、さまざまな形でニューロン間の情報伝達を
非決定論的にしていると思うのですが、どの過程にどのような効果がもたらされて
いるのか、想像できません。

 非決定論的になるとしても、それだけでは<どういう反応をするか分からない>と
いうだけで、<望む方向へ努力する>ということにはなりませんが、押さえておけれ
ばと思っています。

 おそらく、岸さんがテーマにしておられる領域からはずれた質問をしているとは
思っていますが、お考えになること、お聞かせ頂ければ幸甚です。

 我侭を申してすみません。宜しくお願い申し上げます。

                                 敬具
岸 善生様
       2004、8、3、
                              曽我逸郎

**** あたりまえのことを方便とする般若経 ****
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2004/8/4 曽我逸郎さんへの回答
こんばんは、岸です。

数式ばかりのページより、曽我さんとさせていただいた対話の方が、実はとても
分かりやすいということに気付きまして、勝手ながら私のHPにも掲載させて
いただきました。

「無我=縁起であれば主体的努力は不可能」という事はないように思います。
まさに、曽我さんがおっしゃるとおり、
>私達が、なにかすること、しないことで、現象は大きく変化し、未来の現れ方も大
>きく変わるということですね。そして、その変化は、非決定論的なので、しばしば思
>いがけない結果となり、私達はあわてふためくことになる。
ということだと思います。
私たちは、確かに大きなものに動かされて居るようですが、これにゆだねすぎること
は親鸞の言っている「本願ぼこり」につながってしまうように思います。

脳のお話は、私もあまり得意ではないのでどこまでお答えできるか分かりませんが、
現代物理では、解明されてない大きな点として、量子論と重力理論の
統一があります。
空間と時間の畳み込みを言及しているファインマンの経路積分の方法は、
量子論と電磁気学を統一した量子電磁力学なのですが、このファインマン
にも重力を含めた理論の統一はできませんでした。

この量子論と重力理論の統一に注力した物理学者にペンローズがいます。
ペンローズは、この「量子重力理論」では、計算不可能な過程が出てくるで
あろうと主張していました。修和さんがおっしゃっていたように、現在の状態
から未来の状態を容易に予知することが出来ない「カオス」などの力学系で
さえ、「計算可能」な過程(決定論)ですから、ペンローズのいう「計算不可能な
時間発展」(非決定論)というものは、根本的な変革です。

前置きが長くなりましたが、この計算不可能な量子重力の過程が、脳の中の
マイクロチューブルという蛋白質において起こっているとペンローズは言及して
います。そしてこのマイクロチューブルで起きていることが波動関数で、
ニューロンとニューロンの間のシナプスの伝達効率の変化が波動関数の
収縮であるという説があるようです。ニューロン間の情報伝達とは、この
波動関数の収縮しているポイントを単に追いかけているに過ぎず、これは
現象界です。この現象界の後ろに全体性としての波動関数があり、マイクロ
チューブルと深く関係しているようです。
これらの説が、もし正しいとすれば、脳の中の情報伝達も、非決定論的に
起こっているということになりますね。

どうも、この辺の話になってくると、今まで読んだ本の受け売りにほとんど
なってしまっております。
切れ味の悪い回答、平にご容赦ください。



2004/8/15 曽我逸郎さんへのメール「縁起と量子理論は対立しない」
曽我さん、お帰りなさい。
旅はいかがでしたか。

修和さんのご意見の中で、
>量子論の、非決定論的な解釈の唱える所は、縁起に敵対して来る可能性があると
>思うんです。
というくだりがありましたが、
量子論は、「縁起」の考え方をサポートすることはあっても
縁起と量子論とが対立すること全くないと私は考えております。

曽我さんの「あたりまえのことを方便とする般若経」をもう一度じっくりと読んでみ
ました。

【無我即縁起】の中の
「一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界をつくっている。世界の一
切が今あるものすべてを変え、今あるものすべてがそれぞれの仕方で世界を変え、
世界の一切が今あるものすべてを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。」

は、

【ファインマンの経路積分との比較】の中の
「全ての過去、全ての世界(宇宙)の影響を包み込んだ形で、今この瞬間が成り立っ
ていることになります。
自分だけの過去が原因で、今の自分があるのではなく、世界中の人々の過去、
そして宇宙全体の過去の影響を受けて今の私があることになります。
そして、今この瞬間の私の行為が、未来の状態を変える原因となっています。
私だけの未来を変えるのではなく、世界中の人々の未来、そして宇宙全体の未来を
変える原因となっていることになるのです。」

と全く一致しておりますし、

【励まし】の中の
「わたしたちは、縁起により、空の力で、一方的に変えられるばかりではない。私た
ちにも空のエネルギーは流れている。わたしたちも、縁起によって世界を変えてい
る。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。」

は、

【曽我逸郎さんとの対話】の中の
「確率の波に私たちがどのように働きかけるかによって、起こる現象が
変わってきます。同じ、確率の波が存在していたとしても、我々の働きかけ方
によって、違う現象が起こってきます。観測対象と観測者のその時のエネルギー
の状態によって、確率の波の位相が変わり、波が強めあったり弱めあったりした
結果、強めあったところだけが現象として残ります(現われます)が、波の位相に
エネルギーがパラメーターとして含まれているため、その時のエネルギーの状態
によって、波の強めあい方が変わってくるからです。」

と同じ事を言っていると読みました。

また、
>物理法則を絶対視する人達が居ると思いますが、彼らの導き出す考え方が、
>仏教の考えに近いとしても、彼らの目的はそもそも、この世の全てを人間の
>知る範囲に収める事という感じで、仏教とは目的が違うのではないかと思うんです。
とも修和さんはおっしゃっておりましたが、
確かに物理法則が絶対だと考えている物理学者も多いようです。実際私が量子論を
教わった大学の教授も、あらゆる哲学のヒエラルヒーの頂点に「量子力学」と書いて
「量子力学帝国主義」なる話を、一番最初の講義で力説していたことを鮮明に
覚えております。
私も、自然科学で何でも説明できるはずだと、一年半くらい前までは思っておりまし
て、仏教の「ぶ」の字も考えたことはありませんでした。
ただ、粒子性と波動性の二重性をうたう量子力学はどこかおかしいと大学を卒業し
て以来15年間くらい思っておりまして、いろいろと数式をいじくり回しているうちに、
空間のあらゆる二点間、そして時間のあらゆる二点間が相互作用しながらこの世界
が成り立っているということを表わす数式を見つけました。何とこの世界は不思議な
成り立ち方をしているのだなと思っていた矢先に、華厳経に出会ったわけです。
なんとお経が、現代の科学がやっとたどり着いた世界観を、しかも千数百年前に、
言っているなんて、私にとっては驚愕以外の何ものでもありませんでした。
そしてこの世界観は、まさに「あたりまえのことを方便とする般若経」の「縁起」な
のです。
そして、この世界観に出会って以来、私は非常に穏やかな気持ちになることが出来
ました。
「他人」や「自分」という分け方はもはや存在しないので、他人の目を気にすること
も無くなりました。また人一倍責任感が強く、責任のプレッシャーに押しつぶされそう
になったことも多々ありましたが、「責任」という概念も、責任の範囲などという言葉
からも分かるように、二元論的な考えが作り出した概念でありますが、実はこの世界
が全体性と呼べるものから顕現した現象に過ぎないということに気付き、
「責任」などという概念も存在しないのだということが分かった時、肩の力が
すっと抜けました。
こういった意味で、少なくとも私にとっては、物理という存在が私の苦しみを軽減さ
せてくれましたので、ある意味、私にとっては物理がこころの支え(宗教)になって
いる部分もあります。私のホームページを一番よく見ているのは、
恐らく私自身でしょう。

物理学も所詮は本質を「近似している」に過ぎないのです。
世界観を、言葉や偶像や曼荼羅などで表現しようとするのと同じように、物理の
場合もただ数式という言葉を使って、近似しているにすぎません。
ですので、「この世の全てを人間の知る範囲に収めよう」などという考えを持った
物理学者は、もはや傲慢以外の何ものでもないのです。



2004/8/18 曽我逸郎さんからのご返事
拝啓

 メールありがとうございます。

 10日間の修行は、今から振りかえると、もっと頑張れたのになァ、という感じで
す。あらためてHP上で御報告致しますので、その際は御一読頂いて、また御意見を
頂けると幸いです。

 岸さんにおいては、物理学の数式は、もはや一種の「偽」経か論の域に達している
のだと思いました。

 しかし、悔しいかな、私にとっては、数式はサンスクリットやパーリ語と同様に、
いやそれ以上に難しい。

 数学が全宇宙共通の言語だとしたら、宇宙人に仏教を説く時、岸さんような数式が
力を発揮するでしょうね。宇宙の様々な知的生命体が寄り集い、数式で無常=無我=
縁起を語り合う。あながち夢物語とも思いません。釈尊の教えは、それくらい普遍性
のあるものだと思います。

 修和さんからの御質問に対しては、他の方からも御意見を頂きました。議論の輪
が広がっていくのは大変うれしいことです。修和さんの問題提起がそれだけ
インパクトの強いものなのだと思います。

 無我にして縁起の現象に、如何にして主体的努力や発心が可能か? おそらく、
物理学による非決定論・カオス性と、生物に本来的な「よりうまく行きよう」とする傾
向とがあいまって、可能になっているのだろうと想像しています。でも、まだ頭の中
が整理されていません。岸さんに頂いた御意見も参考にさせて頂き、もう少し考えて
みます。

 今後ともよい刺激を宜しくお願い申し上げます。

                                 敬具
岸 善生様
      2004、8、18、                    曽我逸郎

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