諸行無常と相対論的粒子場

 

「現代物理のおかしさ」では光についてお話しましたので、今回は物についてお話します。

「物」というと何を想像するでしょうか?物質、質量のあるもの、何か形のあるもの、何か確固としたもの、分子、原子、電子などさまざまかと思います。

原子核の周りを電子が回っているという原子イメージを分かりやすく例えてみると、東京駅にサッカーボール大の原子核があると電子はパチンコ球くらいの大きさで小田原あたりを回っていることになります。そしてその電子のスピードはなんと光の速さの約137分の1の約秒速3000キロメートル、つまり時速1千80万キロメートルというとてつもなく速いスピードで回っています。

こういった電子などで構成されているのが物であると我々は教えられています。

このような猛スピードで動いているものに適用されるのが相対性理論で、相対論的粒子(猛スピードで動いている粒子)の場が満たす方程式が、Klein-Gordon方程式です。

このKlein-Gordon方程式で質量をゼロとすると、電磁場(光)が従う波動方程式になります。光子には質量がありませんので、Klein-Gordon方程式で質量をゼロにすると波動方程式になるのはうなずけます。

この方程式を解くと、

となります。ここで、とおいています。

Klein-Gordon方程式のグリーン関数で

   J1は1次のBessel関数。

を満たします。ちょっと複雑な式ですが、右辺の第一項目に光のところでも出てきた外向き球面波の伝播関数が出てきているところに注意してください。

これらの結果を用いて、相対論的粒子場のエネルギーを計算してみると、

…(1)

となります。「現代物理のおかしさ」でお話した光のエネルギーの式とそっくりですね。

この最後の式には光のところでお話した「包み込み」の概念が組み込まれています。

@で示される時空に、波動の源のがある。

Aそれが、Klein-Gordon方程式の伝播関数(グリーン関数)によって、運ばれてゆく。

B時空点には、全空間、全時間の波動の源であるの情報が、伝播関数に乗って集まってくる。そして全空間、全時間について足しこまれる。

C集まってきた全情報の時間微分が、別なと相互作用をする。

Dその相互作用を、全空間、全時間で足し合わせると、相対論的粒子場のエネルギーになる。

光のところでお話したことと全く同じですね。

 

また最後から二番目の式で、(場の源)や(観測装置)がかなり局在しているとすると、の間に、ある方向が定まります。それをとして、の周りでテーラー展開して、二次以上の項を無視すると、

…(2)

となります。

ここで出てきたは、は、

包絡線がデルタ関数、群速度が、位相速度がの波束をあらわしています。そして、この波束が、場から顕現した相対論的粒子なのです。

これも「現代物理のおかしさ」でお話した、観測によって現れた光子の波束

とそっくりです。相対論的粒子場の波束で質量をゼロ、つまりをゼロにすれば、光子の波束になることは簡単に確かめられますね。

このように波動性が本質で、相対論的粒子も全体性から顕現する波束と考えれば、「物」も「光」も同じように論じることが出来ます。

ここでもう一つ面白いのは、光子の波束の位相速度はで、波数によらないので、波束の形状を永久にとどめることが出来ますが、相対論的粒子の波束の位相速度がであり、波数によってしまうため、時間の経過と共に波束の形状は崩れてしまいます。

つまり、光子(つまり光)は永遠に存在し続けることが出来ますが、相対論的粒子(つまり物)は一時的にしかその存在を保つことは出来ないのです。

質量があって確固としているように一見思える「物」が実は一時的にしか存在しえず、質量のない一見とりとめのない「光」は永遠に存在できるのです。

 

こう考えた時、私は、空海の密教の大日如来、華厳経の毘盧舎那佛が「本質」で、色即是空(物は空)、諸行無常であるという仏教がなんとなく実感できました。

 

「物」は永久に存在するものという認識、そしてその存在する「物」への執着、この意識が人間の欲望を生み出し、きれいな洋服を着たい、いい家に住みたい、といった欲求につながってゆきます。更に欲求がつのれば、財産を増やしたい、財産を増やすためには出世しなければならない、権力闘争に勝たなければならない、という具合に、富や権力を追い求める気持ちを次々に生み出します。こういう人々が集まって会社や国家のような組織になれば、さらに意識が増幅され、富や権力の追求は、会社と会社、国家と国家との間での競争となり、争いにも発展します。

そして、この欲求や欲望が思い通りに満たされない時、人は苦しみ、悩み、他人をうらやみ、他人を憎み・・・、というさまざまな気持ちに煩悶することになります。

 

般若心経では、「色即是空」が分かると「能除一切苦」といっています。つまり物は「空」であると悟れば、物に執着することがなくなり、あらゆる苦しみを取り除くことが出来るといっています。

物への執着をなくすことが出来れば、苦しみが無くなりそうだということは分かるような気がします。

でもどうすれば物に執着しない気持ちになれるかというあたりが、われわれ凡人が最も悩むところかもしれません。それは、物が「空」であるというところがどうしても難しく具体的なイメージをつかむことが出来ないからかもしれません。物は原子から作られていると学校で教わりました。原子=アトムと聞くと、ものすごく硬いものというイメージがありませんか。アトムの語源はギリシャ語で「もうこれ以上分割できない」ですから無理もありませんね。

でも、我々の物質世界の基礎となっている原子は、東京−小田原間を半径とする球の中に、サッカーボールが1個とパチンコ球が1個しかないくらいスカスカなものです。そしてそのサッカーボールとパチンコ球も、現れてはまたすぐに溶けるように消えて行ってしまう様なものなのです。

そのような原子によって、我々の回りにあるものは作られています。

私は「空」を、この説明でイメージしようと努力しています。こう考えると、「物」がなんとも頼りなく存在感がなく、執着する必要がない(というよりも執着する意味がない)という気持ちになんとなくなれるからです。

 

一人一人の、「物」に対する意識が少しずつ変わり、富や権力の追求のための闘争心が薄まり、そういう気持ちの人々が社会に増え始めれば、国や世界が変わってゆくかもしれません。

物理をやっていると、仏教の大きさがしみじみと感じられます。仏教にやっと現代科学が近付いてきたのだというのが実感です。

その仏教に、「唯識」という考えがあるのですから、人間の意識の変化こそもっとも大切なものなのだと思っております。