華厳の世界に誘われて

2004/1/10
夕方、どうしても京都に行きたくなった。新幹線で行くと今夜の宿泊場所を確保しなければならないので、夜行の高速バスで行くことにしようと思った。そうすれば、京都に明日の朝方着くであろう。JR蒲田駅のみどりの窓口で、京都行きの高速バスを探してもらうが、三連休ということもあって、どの便も満席である。奈良行きも探してもらうが、こちらも満席である。残念だが今日は諦めることにした。



2004/1/11
朝から、やはり京都か奈良に行きたい気持ちが治まらず、8時半に家を飛び出す。京浜東北線で取りあえず東京まで行って、新幹線に乗ろう。東京駅に9時前に到着。京都までの自由席特急券と京都市内までの乗車券を買って、何時の新幹線があるかを見てみると、9時6分発のひかり新大阪行きがあと3分ほどで出発する。14番線の階段を急いで駆け上がり、自由席は、というと1から5号車と表示されているので、前方へ急ぐ。どうにか席を確保する。
車窓からは雲ひとつない景色が続く。
お昼前、あと少しで京都に着く。そもそも今回の旅の目的は、真言密教の東寺か華厳宗の東大寺をゆっくりと見て回ることだった。今日はどちらに行こうか?京都で一泊しようか奈良にしようか?そんなことを考えていたら、車内放送で乗り換えの案内がある。それによると数分の待ち合わせで、奈良行きの快速があるという。気持ちは決まった。奈良へ行こう。そして奈良で一泊しよう。
新幹線の改札を出ると、そこが奈良行きの快速が発車するホームだった。
小一時間の列車の旅で、JR奈良駅に到着した。取りあえず今晩の宿を確保しておかないと落ち着いて観光できないので、駅前の観光案内所で聞いてみるとJRのみどりの窓口で宿を斡旋しているという。早速みどりの窓口で聞いてみると、すぐに三井ガーデンホテルに電話してくれた。値段の交渉をしていなかったので少し不安だったが、部屋は取れ、値段を聞いてみると素泊まりで7000円、良心的な値段である。
宿も確保できたので安心して東大寺大仏殿へと市営バスで向かう。
現代の東大寺の中に華厳の教えの片鱗が今でも残っているのだろうか。それとも大仏観光の寺になってしまっているのだろうか。今回は、とにかく華厳の片鱗を東大寺の中に探してみようと思った。
境内への参道、お土産やと鹿ばかりで華厳の匂いはない。戒壇院、華厳はない。大仏殿に入り大仏の周りを一周。やはり華厳の香りはないか、と思った時、ふと大仏殿の出口にある寺務所を覗いてみると、なんと御朱印帳に書かれる文言が「華厳」であった。二人で書いていらしたが、一人の「華厳」の文字はふくよかな丸みを帯びた字で、もう一人の「華厳」はなんとも流麗な文字だった。私も思わずうれしくなり、普段は御朱印帳など書いてもらわないので、朱印帳を新しく買ってそれに書いてもらうことにした。墨を乾かすために挟んでくれた吸い取り紙に、華厳の教えが書いてあった。

****** 華厳の教え ******

東大寺は、華厳宗のお寺です。その根本的教えを説く「大方広佛華厳経」は、時間と空間を超えた佛を説いた教えであり、偉大で、正しく、広大な、佛の世界を、菩薩のさまざまな実践の華によって飾ることを説く、お経です。
「華厳経」では、佛とは、毘盧舎那(ヴァイローチャナ)佛のことを指します。そして、その意味は、遍く照らし出している無限の光明そのものであり、光明遍照と訳されます。
この大佛さまは、お釈迦様が、無限の修行をして悟りを聞き、人々を救うために蓮華蔵世界という「悟りの世界」の教主になられたお姿で、実に人間的な佛さまです。
密教では、同じ毘盧舎那佛が「大日如来」となり、真理そのものの人格化で、宇宙の生命そのものと、考えるのです。そのことが、華厳と異なるところです。

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さらに写経のセットが売っており、そのお経が「華厳唯心偈」というものだった。やはり普段写経セットなど買わないのだが、なんとなく買ってしまった。そのセットの中に入っていたパンフレットより

****** 縁起・唯心・華厳について ******

仏教では縁起と申しまして、万有は縁(条件)によって生じる、つまり一切のものが関係の上に存在している事実を凝視するのです。
華厳では、この関係をさらに深め高めて、たとえば私というものは、私以外の万物(の恩恵)によって生かされているのだが、同時に私も他の万物を生かしているわけで、あらゆるものは重々無尽に関係しあって、共存共栄、美しい調和のとれた世界に気付かねばならないというのです。
また、縁起の奥底へ目を向けて唯心(縁起)とも申しまして、一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真の実在であると説くのです。
これをさらに高め深めたのが華厳経の中心思想であって、この唯心縁起の究極をあらわしたのが<唯心偈>なのであります。
あの般若心経は、大般若経六百巻を二百六十六字に煎じつめたものであるように、この唯心偈は六十巻または八十巻の華厳経を百字に凝縮した華厳の真髄、つまり<百字心経>とも言うべきものであります。
あの画家が、風景(自然)・人物(人生)・静物(万物)となんでも自由自在に描くように、心もまた宇宙万有を描く画家でありましょう。<心は工なる画家の如く・・・>と、百字心経は、はじまるわけです。
地獄という苦の世界を創り出すのも心なら極楽という楽しい境地に住むのも心であり、さとって仏となるのも心、迷って衆生に止まるのも心にほかなりません。
その他、あらゆる世界、境界、一切の存在を現出・創造するのが心、心の働にほかならず、一切は心からであります。
だから、このことがわかれば、本当の仏さまがわかるのであります。華厳がわかり仏教がわかり、さらに真実の神・仏、本当の宗教というものがわかるわけであります。
過去から現在未来へ、その三世が夫々に過去現在未来の三世を抱きかかえて流れ続く永遠が、実は今、この現在に収まっているという十世も、四方八方上下と無限に展がる十方も、いまここにいる私の心に掌握されているのです。華厳は一即一切念劫融即といい、新しく、無限の此処永遠の現在といっているのですが、この大きく広い心を清く美しく大切にして、一瞬一瞬一歩一歩、全身全霊をうちこんで、一日一日を花のように美しく立派に生きることが華厳なのです。

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寒くなってきたので、少し早いが5時前にホテルにチェックインした。フロントの女性の話によると、今日は若草山の山焼き、6時前より花火に続いて山焼きが実施されるというのです。ホテルの屋上が開放されるのでそこから見ることが出来るらしいのです。

午後5時50分、若草山の頂上より冬の夜空に花火が打ちあがる。花火に続き、麓より火の手が一斉に上がる。時間と共に火の手は北風に煽られ、頂上へ頂上へと延焼してゆく。若草山の炎を背景に興福寺の五重之塔と東大寺の大仏殿がシルエットで浮かび上がっている。華厳の世界が、ようこそいらっしゃいましたと私を歓迎してくれているようだった。







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