現代物理のおかしさ

 

私が、物理に興味を持ったのは、光とは何なのだろう、という疑問を持った時に始まりました。

夜空の星を眺めたとき、満天の星々が瞬時に目の中に飛び込んできます。

いったいどういう仕組みで見えているのでしょうか。

子供のころ、光は連続的に伝わってくる波ですよと教わりました。連続的な波として伝わってくる光を「目」というレンズで集めて見ているのだよと教わりました。本当にこんな仕組みで見ることができるのでしょうか?

光源から放出された光の波は、まんべんなく空間に広がってゆきます。ですから光源から遠くなれば遠くなるほど、薄まってしまいます。これは水面に石を投げ入れたときの波紋をイメージしてください。石が投げ込まれたところを中心に同心円状の波ができますが、中心に近いほど波は高く、遠くなればなるほど次第に消えていってしまうのと同じです。そんな薄まった光を、夜空を見上げた「その瞬間」に認識することなどできるのでしょうか。ある程度時間をかけて光を貯めないと見えないのではないでしょうか。そして実際の計算はまさに後者になってしまいます。

目の網膜の中にはレチナールという光を検知するための物質があります。(このレチナールは、にんじんに含まれるベータカロチンから作られます。)

分子生物学によると、私たちが光を認識するためには、このレチナールが数eVeVとはエネルギーの単位)の光のエネルギーを吸収した時に「見えた」と感じると言われています。

計算によると、10メートル離れた100ワットの電球を見たときにレチナールが数eVのエネルギーを吸収するためには、なんと一時間以上もかかるという結果になってしまうのです。電球を見はじめてから一時間以上たって、やっと光っていることがわかるというばかげた結果になってしまうのです。いわんや、何億光年と離れている星々、をや・・・です。つまり、子供のころに教わったような仕組みで光を見ているのではないのです。

 

では、いったいどのように夜空の星は見えているのでしょうか?

プランクの黒体輻射の公式が発表されて以降、アインシュタインは、光が「つぶ」の性質を持つと考えこれを「光量子」と名づけています。その光の粒が、目標物にズドンとぶつかることによって、光と物質の相互作用を説明しています。

つまり、「見る」ということも、この光の粒がレチナールに(正確にはレチナールの中のある電子に)ズドンとぶつかることによって起こっていると解釈しているのです。ズドンとぶつかれば、瞬時に数eVのエネルギーをレチナールに与えることができるからです。この光の粒のことを「光量子」と呼んでいます。

では、「光源から出て、ズドンとぶつかるまでの間」は、光はどのように伝わってくるのでしょうか。「もちろんゴルフボールのように粒の形で空間を飛んでくる」と思われるかもしれませんが、そうではないのです。

考えても見てください。そんな簡単に光の粒が電子と衝突できるものでしょうか。たとえは悪いですが、敵機に向かって高射砲を打ちまくってもなかなかあたるものではありません。また飛んでいる間は、二重スリットの実験などでも有名なように、光は波固有の現象である干渉や回折を起こすことが出来ます。実際に量子力学でも、飛んでいる間は「波」で、ぶつかった瞬間に「粒子」の性質を現すと解釈しています。もう少し言えば、光だけではなく、電子も光とぶつかる前は「波」であり、ぶつかった瞬間に「粒子」の性質を現すのです。これを「波束」の収縮とよんでいますが、この性質こそ、量子力学の本質的な部分であり、自然の本来の姿と現在の物理学では考えられています。また一方で、量子力学の最もミステリアスなところでもあります。飛んでいる間は「波」で、ぶつかった瞬間に「粒子」性を現す?、いったいどういうことでしょう?

この「波」と「粒子」の性質については、私たちの常識とはかけ離れている為、現代物理学の中でもいったいこの「波」が何を表しているのかという点に関して解釈の仕方が分かれております。世に言うところの「波動性」と「粒子性」の二重性の問題です。

もっとも主流な解釈は、この波を確率の波と考えるもので、この確率の波が強めあうところには粒子が到達しやすく、波が弱めあうところには粒子が到達しにくいと解釈するものです。この解釈はコペンハーゲン解釈とよばれ、デンマークのコペンハーゲンに集結していたニールス・ボーアに代表される高名な物理学者達によって構築された思想です。西洋人は唯物的な思想が強いようで、どうしても粒子という概念から離れられず、その結果確率という概念を持ち出して説明しようとしているのではないかと思います。あくまでも光は「粒子性」が主であり「波動性」は従であるともとれる解釈です。しかし、このコペンハーゲン解釈においても、「波束」の収縮のメカニズムは全く解明されておりません。光が電子とぶつかった(相互作用した)瞬間、光は粒子性を現しますので、確率の波は相互作用を行った場所一点に集中しています。しかし、その直前まで光はどこにでも行ける可能性があるので、確率の波は全空間に広がっています。相互作用が行われる直前と直後で波の状態が全く変わってしまいます。それも一瞬で。このメカニズムが現在の量子力学でも、全くわかっていません。

 

コペンハーゲン解釈が本当に、この自然現象を言い表しているのか私は疑問を持ちました。

プランク黒体輻射の公式は実験結果を見事に言い当てていますので、光が電子などとエネルギーのやり取りを行うときには、の整数倍でしかエネルギーのやり取りが出来ないことは、事実として認めてよいでしょう。しかし、この事実を、光が粒子性を持つと解釈したアインシュタインの思考には、かなりの飛躍があるように私には感じられます。光の波を確率の波であるとしてしまい、コペンハーゲン解釈を生み出してしまうといった、現在物理学を間違った方向に導いてしまった分岐点が、まさにこの「光量子」仮説であると私は考えています。

 

そこで私は、もう一度プランク黒体輻射の公式が発表された直後の時代に立ち戻って、波動性だけで光の本質を説明できないかという課題に取り組んでみました。

物理学では光は電磁場ですが、この電磁場は波動方程式を満たします。

この方程式を解いてあげれば、電磁場がどういうように空間を伝わってゆくかがわかります。またそこから、電磁場のエネルギーを計算することが出来ます。

 

電場と磁場Hはベクトルポテンシャルを用いるとそれぞれ、

と計算できます(クーロンゲージを使うと)。

物理では、このベクトルポテンシャルが以下のような波動方程式を満たします。

は電流で波動の源となっています。

この方程式を解くと、

となります。このは、を中心として半径が時間と共に光速で広がってゆく球面の形をした波を表しています。

これらの結果を用いて、電磁場のエネルギーを計算してみると、

…(1)

となります。

この最後の式には実に興味深い結果が含まれています。

@で示される時空に、波動の源の電流がある。

Aそれが、波動方程式の伝播関数(グリーン関数ともいう)

によって、同心球面上に広がって運ばれてゆく。

B時空点には、全空間、全時間の波動の源である電流の情報が、伝播関数に乗って集まってくる。そして全空間、全時間について足しこまれる。

C集まってきた全情報の時間微分が、別な電流と相互作用をする。

Dその相互作用を、全空間、全時間で足し合わせると、電磁場のエネルギーになる。

この式のエッセンスを箇条書きにしてみると、こんな具合になります。

電流が、伝播してくる場の観測装置としての役割をしている(時空点)一方で、電流自身が場の源として記述されている(時空点)ことに、注意していただきたいと思います。

 

また最後から二番目の式で、(場の源)や(観測装置)がかなり局在しているとすると、の間に、ある方向が定まります。それをとして、の周りでテーラー展開して、二次以上の項を無視すると、

…(2)

となります。

ここで出てきた、というものが何を表しているかということを見てみると、これは包絡線がデルタ関数で群速度がの波束をあらわしています。

つまり、

B’時空点には、全空間、全時間の波動の源である電流の情報が、包絡線がデルタ関数で群速度がの波束として集まってきている。そして全空間、全時間について足しこまれる。

と先ほどのBを読み替えることが出来ます。

テーラー展開前は、同心球面状に広がっていた波が、テーラー展開後に、包絡線がデルタ関数で群速度がの波束に変わったのです。

何かを思い出しませんか?そうです、「波束」の収縮です。そして、「包絡線がデルタ関数で群速度がの波束」こそ、粒子性を現した光なのではないでしょうか。

このように、波の性質だけで、光の粒子性が出てきます。

つまり、コペンハーゲン解釈とは全く反対の立場をとり、光はあくまでも「波動性」が主の性質であり、「粒子性」は「波束」という形で波動性から導き出せるのだと考えると波束の収縮が自然に導けます。

ここで重要なのは、の局在性です。が局在していると仮定して、テーラー展開したことです。の局在性とは、ではいったい具体的には何を意味しているのでしょうか。これは「観測装置」と「場の源」の局在性を意味しています。我々の目を考えて見ましょう。

我々の目の中の網膜には、光を感知するための高分子タンパク質であるロドプシンが敷き詰められています。そのロドプシン一つ一つのなかに先に説明したレチナールという分子があります。実際にはこのレチナールが光を検知しています。つまり我々の目の中には、観測装置としてみた場合には、局在したレチナールが一面に敷き詰められていることになります。そして、我々が物を見るということは、空間のある一点から発せられた光源の光とレチナール一個との相互作用を最小単位として、空間の別な一点と別のレチナール一個という組み合わせを、全空間、全網膜上でトータルしたものが、今見ている光景ということになります。一般に光源から出た光は360度の全方向に放射されますが、これをレチナール一個で観測するということは、この全方向に放射された光のごく一部(ごくごく小さな立体角)を見ることに他なりません。この光源とレチナール一個という最小単位で考えた場合、光源とレチナール一個の間には必ずある方向が決まります。つまり「観測する」ということは、言い換えれば「光源」と「観測装置」との間に「ある方向を決めてやる」ということであると考えられます。そして、「ある方向を決めてやった」事によって、「波束」つまり「粒子性をもつ光」が現れたのです。

同心球面状に広がっていた波が、観測することによって、波束に変化したわけです。これが、観測による波束の収縮のメカニズムであると私は考えております。

光を波と考えれば、コペンハーゲン解釈では解決できなかった波束の収縮のメカニズムが、このように説明できるようになるのです。

 

さて、さらにこの式は、

と変形でき(を使用)、プランクの黒体輻射の公式

と比べてみますと、

という、アナロジーが成り立ちます。これも、「包絡線がデルタ関数で群速度がの波束」こそ「粒子性を現した光」である、ということの一つの裏づけだといっても許されるのではないでしょうか。

 

アインシュタインは死ぬまで量子力学のコペンハーゲン解釈に反対していましたが、皮肉なことに、アインシュタインが提唱した光の粒子説を破棄することにより、量子力学のコペンハーゲン解釈は否定されることになるのではないでしょうか。

 

コペンハーゲン解釈に反対していた、もう一人の高名な物理学者が、もう一人いました。

隠れた変数理論などで有名なデビッド・ボームです。

デビッド・ボームは量子力学のコペンハーゲン解釈に対抗する解釈方法として、ホログラフィックパラダイム理論を提唱しています。

ホログラフィックパラダイム理論では、この宇宙には、「内蔵秩序」と「顕前秩序」とよばれる二つの秩序が存在し、「顕前秩序」の全ての物質、空間そして時間が「内蔵秩序」に包み込まれているというものです。デビッド・ボームはこれをホログラフィーに喩えて説明しています。ホログラフィーとは、写真乾板上に一見不規則な干渉縞が記録されているもので、これにレーザー光線を当ててみると、被写体の立体構造が浮かび上がってくるというものです。しかも、この写真乾板を一部分引きちぎって、それにレーザー光線を当ててみても、被写体の一部ではなく全体像がしっかりと浮かび上がってくるというものです。

つまり、ホログラフィーの部分部分にそれぞれ、被写体の全体構造が包み込まれています。

ホログラフィックパラダイム理論とは、ホログラフィーの被写体を「顕前秩序」、乾板上の干渉縞を「内蔵秩序」に置き換えたものがこの宇宙だとするものです。

デビッド・ボームの著書である「全体性と内蔵秩序」の中では、この「包み込み」のことをメタモルフォシス(変態)とよんでおり、ホログラフィーの例の考察において、デビッド・ボームはこのメタモルフォシス(変態)がグリーン関数で定められるとしています。つまり、被写体の全体構造が、乾板上の各領域に、グリーン関数によって「運ばれ」そこに「包み込まれる」としています。

被写体上の点と乾板上の点との間にはもはや一対一の対応関係があるのではなく、マトリックス的な変換で、被写体の全体構造が、乾板上の各領域にばら撒かれ、包み込まれるのです。

 

さて、光の話に戻って、電磁場のエネルギーを現す式をもう一度考察してみます。式(1)、(2)や、

B時空点には、全空間、全時間の波動の源である電流の情報が、伝播関数に乗って集まってくる。そして全空間、全時間について足しこまれる。

B’時空点には、全空間、全時間の波動の源である電流の情報が、包絡線がデルタ関数で群速度がの波束として集まってきている。そして全空間、全時間について足しこまれる。

に着目してみましょう。

この文章や、式(1)、(2)をよく見てみると、これはデビッド・ボームが提唱している「包み込み」の概念が、まさに現れています。つまり、

波動の源である電流が「顕前秩序」に相当し、

これがグリーン関数

波束

によって時空点に「運ばれ」、全空間、全時間の波動の源である電流が時空点に「包み込まれ」ています。

電磁場のエネルギーを現す式の中に、しっかりと、「顕前秩序」と「内蔵秩序」の概念が組み込まれていることが大変興味深いです。さらに、ホログラフィーの例では、空間のみが「包み込まれて」いたのに対し、電磁場のエネルギーの式ひいては、この宇宙においては、空間に加えて時間さえも「包み込まれ」てしまうことに注意を払いたいものです。

 

アインシュタインの唱えた光の粒子説を捨てて、光の波動説を採用し、

ニールス・ボーアに代表されるコペンハーゲン解釈を捨てて、デビッド・ボームのホログラフィックパラダイム理論を採用することによって、現代物理学は正しい方向へ戻ることが出来るのではないかと私は考えております。

 

こんなことを考えていたときに、華厳経に出会いました。

 

華厳経

微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、

少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、

広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、

一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、

限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・

限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・

異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・

 

西洋的な物理的世界観は、なにかおかしいと感じております。仏教についてはまだまだ勉強不足ですが、宗教的世界観と対話することによって、物理的世界観の明確化、正確化を実現してゆきたいと思っています。